三
実家に帰った次の日は休みだったため、透は朝起きてから防音室の中で一日中ピアノを弾いていた。
ブラームスのピアノソナタを中心に、ショパン、ドビュッシー、ラフマニノフ、シューマンと体に刻みこまれた指の動きをとにかくアウトプットし続けた。旋律を奏でているのではない。指を動かし、鍵盤を叩き、ペダルを踏む。音楽を創るというよりはフィジカルトレーニングと表現する方が近い。
音楽はとにかくフィジカルである、と透は少年時代から考えていた。人間が音楽を耳だけで聴くようになったのはごくごく最近のことであり、それまでは視覚と聴覚の両方の感覚を使うことが「聴く」ということだった。オーケストラも、歌舞伎も、川のせせらぎも、葉がこすれ合う音も、すべては目で聴いて、耳で聴いていた。だから、本来、音楽というものからは身体と視覚情報は切り離すことはできない。
そこに音楽家の身体があり、身体の動きを見て、聴いて、音楽を感じる。
音楽家は身体を動かさなければ、聴衆に音楽を伝えることができない。
師匠であるあゆみもそう言っていたし、透自身もそう考えていた。
とにかく、今自分にできることは体を動かして、もう一度目覚めさせることだ。
ピアニストとしての身体を取り戻すために、指を動かし続ける。
不思議と疲れは感じなかった。時間が止まっているように感じ、音楽だけが進んでいくような感覚。時間の流れすらも旋律に飲み込まれ、狭い防音室が外の世界から完全に隔絶される。その感覚に陥ったことで、透は昔持っていた「何か」を思い出し始めた。
もちろん、十二年前の感覚が戻ってくるには相当の時間を要する。二十年近くかけてつくりあげた感覚と技術をたったの二カ月で取り戻せるとは思っていない。しかし、それをやらなければならない。
汗を拭うのも忘れてピアノを弾き続け、やっと時計に目をやったときには短針は「7」を指していた。その「7」という時間が午前なのか午後なのか、窓のない防音室に閉じこもっていた透にはわからない。いつの間に蓄積された疲労を認識してうなだれると髪の毛から汗がぽたりと落ちて鍵盤を小さく叩く。
透もないとは思ったが午前七時だったら仕事に遅刻をしてしまうので、とりあえずピアノの蓋を閉じて防音室を出る。
予想通り、リビングの窓から見えるのは暗闇であり、午後七時だということを透は認識する。キッチンではすみれが料理を作り、ダイニングテーブルでは聡が難しい顔をして新聞を読んでいた。
「父さん、久しぶり」
透は小さく声をかけながらテーブルに腰掛けると、
「うん」
と聡も応える。
父親は元々口数の少ない人間だった。おしゃべりが好きなすみれとは対照的であり、よくこの夫婦が三十年以上も仲良く夫婦をやっているなぁと透はいつも思っている。
「今は誰の研究をしてんの?」
「ホワイトヘッド」
「聞いたことないな」
「だろうな」
「何をした人なの」
「説明してもわからない」
「そっか」
こんな単語と単語を繋げ合わせたような会話が常だった。透が小学生の頃から、それは変わらない。
しかし、透はいつでも聡に見守られていた、と今になってみると思う。どれだけピアノに熱中して夜中まで弾き続けていても、聡はいつまでもリビングで透の練習が終わるのを待ちながら新聞を読んでいた。当時はなんで寝ないんだろうか、と疑問に思っていたものの、今思えばやはり自分のことを待っていたんだ、と思える。
音大を目指したいと透が告げた時も「そうか」と言っただけで、反論をすることはなかった。
「音大に行ったあとはどうするんだ」「音楽の勉強なんかして何になる」と言うことも言わずに、ただただ透が道を歩いて行くのを近くで見ていた。
「仕事は楽しいのか」
聡は新聞に目を向けながら、ぽつりと言う。
その質問を聞いて、透の頭の中には様々な風景が思い浮かぶ。
悔しさのあまり拳を握りしめた日、なんで自分がこんな目に合わなければならないんだと思った日、見たくないものを見てしまった日、そして、最高の音楽と共に時間を共有できた日のこと。
「うん。楽しい」
透は言う。
「そうか」
聡は小さく言う。
キッチンからはすみれが作るグラタンの匂いが香ってくる。
家族か、と透は思う。
自分は、どんな家族を築くのだろうか。
こんな家族を築くことができるのだろうか。
未来のことは透にはわからない。
ただ、現在の気持ちだけは大切にしたい。
そうすれば、いつか明るい日々が到来する。
透はそう思いながら、今まで鍵盤を叩いていた感触を思い出す。
「透。ちょっと来なさい」
リハーサルの直前、楽団員がちらほらと舞台に集まり始めたところで、横溝が透に声をかける。横溝に呼ばれるまま、舞台袖の中にある横溝の楽屋へと入っていく。
「まぁ座れ」
横溝が促し、ソファに座り、二人は対面する。
「もう、透がこの楽団に来てもう五年になるか」
「二十九歳のときに入団したので、そうですね。五年です」
「長いようで、短いようにも感じるな」
「はい。横溝さんに最初に怒鳴られたのが昨日のことみたいです」
「もう怒鳴りすぎていつが最初なのかは覚えていない」
透は横溝の音楽に対するストイックさを見ながら仕事を覚えていった。楽器の向きを僅かに変えるだけで、指揮者の姿がほんの少し見えないだけで、音楽の質は変わり、まったく別なものに姿を変えてしまう。その曲が本来持っている魅力がなりをひそめ、輪郭が不明瞭でぼんやりとした姿だけがホールに広がってしまう。そのことを横溝は身を持って教えてくれた。
今まで舞台の上にしか立ってこなかった透に、客席で聴くという視点、そして音楽全体を俯瞰する能力を授けてくれたのは他でもない横溝だった。
横溝は指揮をしながらも常に耳はホールの天井付近に移動させ、ホール全体の音楽を掴んでいた。透にとって、それは到底盗めるような技術ではないが、本物のステージマネージャーになるためにはその技術を体得しなければならない。一歩も動かずとも、一階席、二階席、三階席のすべての場所でどう聴こえるかということを想像できなければならない。ただ、まだ遠い道のりである。
「透はまだまだだ」
横溝は透の心を見透かしたように言う。
「確かにセッティングする技術は向上している。東京を代表するステージマネージャーに育って来ているのは間違いないし、どこに出してもおかしくないレベルに達しているとは思う」
横溝の低い声が楽屋の中に響く。
「しかしだ、まだ透にはやらなければならないことがたくさんある。音楽の魅力を最大限に引き出すためには、まだ足りない。音楽は舞台だけで行われるわけではない、ということは透もわかっているはずだ。楽器が音を出していない時点から音楽はすでに始まっている。音楽とは気配だ。そこに立ち現われる気配を聴衆は耳を澄まして聴いている。その演出はステージマネージャーがしなければならない。わかるか?」
「はい」
「このメトロポリタン・フィルは、間違いなく日本屈指のプロオーケストラにまで成長した。ただ、まだ世界レベルには達していない。佐川くんとの共演で知名度は少しあがったものの、まだ海外の名門オーケストラとは肩を並べるには時期尚早だ」
横溝は普段、自らの音楽をの価値を下げるような発言はしない。そんな横溝でもメトロポリタン・フィルと海外オケの差をしっかりと認識している。
「海外のオーケストラと肩を並べるためには、演奏者も間違いなく大事だが、スタッフも大事だ。すべての演奏者が最高のパフォーマンスをするために、どんな小さなことにも目を向ける。コントラバス、チューバよりも下からバンドを支える。それがステージマネージャーという職業だ。縁の下の縁の下の力持ちなだけあって、客席からはその苦労は見えない。しかし、見えないところに肝心なものはあるものだ」
横溝の視線はまっすぐ透の目を捉える。年老いてもなお、その輝きが衰退することはない。最高の音楽を渇望する輝き。どこまでも昇りつめたいと願うその輝き。
「だから、何が言いたいのかと言うと、とにかくこれからもよろしく頼む、ということだ」
横溝は僅かに顔を綻ばせながら言う。
「もういいだろう。十分に時間を稼いだはずだ」
そう言って横溝は立ち上がり、楽屋の扉をあける。
「透、舞台へ行け」
横溝に言われるがまま、透もソファから立ち上がって舞台へと歩いて行く。
舞台袖から舞台へと出ると、そこには楽団員が勢ぞろいして全員が透の方を向いていた。
「え、なんですか。なんかしましたか、僕が」
状況を飲み込めない透は動揺を隠すことなく辺りを見回す。
「なんかした、じゃなく、これからするんだろう?」
コンサートマスターの席から、堀内が言う。柔和な笑顔を照明が照らす。
「これから、透くんはブラームスを弾く」
堀内は言う。
「なんで、そのことを」
と、言いながら透の頭の中には秦の顔が浮かぶ。すぐに秦が座る木管中段の列に目をやるといたずらっぽい笑みを浮かべている秦がいた。
「でも、桃香さんが本当に聴きたいのは、ピアノソナタではない、と」
堀内の優しい声が舞台に響く。
「ピアノソナタじゃなくて、ピアノ協奏曲です!」
秦はにんまりとした笑顔を浮かべながら叫ぶ。
「二カ月後の三月二十三日。その日、ちょうどメトロポリタン・フィルの公演はない」
背後からはさっきまで楽屋にいた横溝の声がする。
「やろうよ、ピアノ協奏曲」
堀内は言う。
堀内の言葉が透の体に流入し、意味を理解しようとする。
透の体の中に熱いものが流れる。
体が小刻みに震える。
「リハーサルをすることはできないけど、一発本番で演奏してみようよ。桃香さんのためにも。そして、透くんのためにも」
堀内は立ち上がり、透を見る。
周囲を見渡せば、他の楽団員たちも笑顔で透に視線を向けている。
「これはみんなからの結婚前祝いです。一人のお客さんのために、ブラームスのピアノ協奏曲第一番、みんなで一緒に演奏しましょう」
透はぎゅっと下唇を噛んだ。
その痛みで、どうにか目から溢れてきそうな涙を堰き止める。
「最高の演奏を、全員でしましょう」
一人が拍手をする。
それにつられて、一人が拍手をする。
拍手は徐々に伝播し、広がり、そして舞台を覆う。
舞台上で起きた大きな拍手は客席ではなく、舞台上にいる透に向けられる。
久々に浴びた、自分への拍手。
横溝を見れば、やはり静かな笑顔を浮かべながら拍手をしている。
視界がぼやける。天井を向くと、照明が目の中に溜まっている涙に差し込み、ゆらゆらと揺れ動く。
「ありがとうございます」
大きな拍手の中で、涙を悟られないように、透は頭を深く下げた。
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