「八重樫さーん、子どもたちはどこに連れて行ってあげればいいですか?」

 ホールスタッフの女性の甲高い声の後ろには大勢の少年の声が飛び交っている。初めて入るリヒテスホールの裏側にすでに少々興奮気味である。

「第三リハーサル室に連れてってください。今回は男の子しかいないから着替えもその中で済ませてもらうから。本番の日も同じ場所を使う予定だからトイレの場所とか、お弁当のゴミを捨てる場所も確認させてくださーい」

「わかりました! こら! 関係ない部屋は覗かないでください。ほらーちゃんとついてこないとはぐれちゃうよ」

 そういいながらスタッフはきゃらきゃらと騒ぎ立てる小学校高学年の男子総勢二〇名をひきつれて奥のリハーサル室へと消えていく。透はその姿を見送りながら、業者から届けられる弁当をいつ配分するかを考える。

「おいおい、うちの楽団はいつ学童保育に転向したんだ」

 重厚感溢れる声の方に振り向くと、首席ホルン奏者の御神本浩紀みかもとひろきが笑みを浮かべながら立っていた。ウォーミングアップの最中らしく、右手には小さなマウスピースを持っている。

「勘弁してくださいよ、御神本さん。彼らだって大事な出演者なんですから」

「客はいいよなぁ、演奏中の少年合唱団だけ観てうっとりすりゃあいいわけだから。客をうっとりさせるためには舞台の外でうちのステマネが学童の先生の真似事せにゃならんのだからたまったもんじゃないよなぁ」

 そういって立派に蓄えた黒い口髭を震わせながら豪快に笑う。

 そう、彼らも大事な大事な出演者なのだ。彼らがいなければ今回演奏する曲は成立しなくなる。

「御神本さんもこんなところで油売ってないで準備してください。今日のリハーサルは長丁場なんですから」

「へいへい。了解です、ステマネ様」

 右手のマウスピースを上に掲げながら御神本は楽屋へと戻っていく。

 ふう、と息を一つつき、透は同じフロアにある下手舞台袖へと向かう。

 メトロポリタン・フィルハーモニー管弦楽団が拠点としているリヒテスホールは楽屋から舞台へ向かう動線が非常に使いやすい。このホールのオーナーである日本最大手の自動車会社のリヒテスモーター社長、染浦光弼そめうらみつのりはホールを建設するにあたって「音楽家がストレスなく演奏に没頭できるホール」というコンセプトを打ち立てたことによって今の環境が実現している。なるべく、楽屋から舞台までに階段を作らない。ドアを出てすぐに舞台に出ていけるような作りにすることを大事に作られている。メトロポリタン・フィル専属のステージマネージャーとして働く透にとって、とてもありがたい設備だった。

 舞台袖から扉を通って舞台に出ると、そこではホールスタッフが椅子や譜面台を並べていた。あらかじめホール側に渡しておいたセッティング表を基に大まかに椅子を配置する。しかし、数が揃えばいいというわけではない。この椅子に座る演奏者がどれだけ安心して演奏に集中できるかということを透は考えなければならない。

 まず大前提として全演奏者が指揮者とコンサートマスターが見えるように椅子を配置しなければならない。コンサートでは指揮者はもちろんのこと、コンサートマスターも演奏のタイミング出しをする。音の出だしや、音の切り方を他の演奏者に指示を出すことが多く、また、メトロポリタン・フィルの常任指揮者であり、今回の演奏会でも指揮を務める横溝奏一郎の指揮はわかりやすく、演奏者たちもタイミングを計りやすいのだが、中には踊っているのか指揮をしているのかがわからない指揮者もいる。そういった場合はコンサートマスターがタイミングを出して演奏者たちに指示する。そういったことも考えて、コンサートマスターもしっかりと見えるように椅子を配置する。

 透の頭にはどの楽団員がどの椅子に座るのかは全てインプットされていて、さらには楽団員の座高までも把握していて、たとえば、前の席に背の高い男性奏者が座る場合、後ろの背の低い女性奏者が座る椅子は少しだけ横にずらす。

 譜面台の高さも気をつけなければならない。弦楽器奏者は二人で一つの譜面台を使用する。そのため、隣の演奏者との身長差も考慮しながら譜面台の高さを決める。一人の方の身長に合わせるともう一人の演奏者は譜面が見づらくなってしまう。そのためうまく折衷案を考えながら一つ一つ高さを変えていく。まったく同じ高さの譜面台は存在しない。演奏会の度に新しい高さの譜面台が出現する。しかし、本番を迎え、舞台にあがった出演者が譜面台の位置が気に入らないと高さを変えるということは絶対にあってはならない。そこまで舞台裏で高めた集中力が譜面台に注がれることで削がれてしまう。そうならないように、透は譜面台の高さには細心の注意を払う。

「透っちー。ごめーん」

 舞台の上段の方から声が飛んでくる。ティンパニに座り、チューニングをしていたパーカッションの縣凛あがたりんがマレットを小さく振っている。

「どうかしましたか」

 譜面台の高さを調節するのを一時中断して縣の方へ向く。

「ティンパニの譜面台の場所調節したいからちょっと指揮台に立ってくれる?」

「はーい」

 透は席を立ち、指揮台へと向かう。視線の先には、まだ誰も座っていない座席が広がっている。リヒテスホールはワインヤードタイプのコンサートホールである。舞台を座席が取り巻いていて、天井がとても高い。これも音の充実度を重要視した創立者・染浦のこだわりの形である。どの席に座ってもなるべく同じような音に聴こえるように、場所によって大きく音の響きが変わらないように、緻密に設計されている。

 透は指揮台の上にとん、と乗り、今度は演奏者が座る席の方に向く。電動でせり上がるように設計された舞台であり、非常にセッティングしやすい環境である。今はまだ何人ものスタッフが椅子や打楽器を並べるためにいそいそと動き回っているが、翌日にはこの場所で音楽が創造される。そう思うと透の胸は自然と高鳴る。

 縣は指揮台に乗った透を見ながら微妙に譜面台をずらし、またティンパニの椅子に座り、位置を確認する。昨年四〇代に突入し、打楽器奏者として円熟期に入った縣は楽団の姉的存在である。指揮者の横溝をも掌で操ってしまうほどの人間的力量も備えている。

 縣は五回ほど譜面台の位置を確認したところでOKのサインが出た。

「ありがとー。高梨さんの方のティンパニの譜面台は自分で変えてもらうように伝えておくね」

 縣はそう言ってティンパニのチューニングを再開した。

 ステージの下手上段には二組のティンパニを中心とした数多くの打楽器が設置されている。舞台に並んでいる椅子の数も他の演奏会に比べるとかなり多い。それもそのはず、今回の曲目はクラシック界屈指の巨大編成の曲なのだから。

 透は指揮用の譜面台に乗っている総譜に視線を落とす。

 グスタフ・マーラー「交響曲第三番」

 楽団にとっても、ステージマネージャーにとっても、試練の曲目である。

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