マーラーの交響曲第三番は、総演奏時間一〇〇分を超える大曲である。

 拡大された弦五部、四管編成を超える数の管楽器。そして特筆すべきは八本のホルンと三楽章でソロを担当するポストホルン。さらに歌唱をアルトの独唱と女声・少年合唱団が務める。演奏者の総数は一五〇人近くになる。演奏の規模、オーケストラの規模、共に世界最高を誇る大曲だ。まさに後期ロマン主義が生み出した傑作。

 この曲を相手にするからにはいくらプロのオーケストラであっても油断はできない。ましてやステージマネージャーも同じだ。セッティングする椅子、譜面台の数はバロック、古典主義の音楽を演奏するときの倍以上になる。

 八本を数えるホルンのベルの向きも気にしなければいけない。すべてのホルンの音を後ろの打楽器に共鳴させることなくクリアに反響板に反射させるのも至難の業だ。ここに関してはリハ前にはどうすることもできず、実際に音を出して見ないとわからない。

 透とホールスタッフはなんとかリハーサルの時間までに全ての椅子の配置を確認し終える。

「じゃあメンバー入れますので、照明の確認もよろしくお願いします」

 透はそう言って舞台を去る。広い舞台袖を通って楽屋を回る。

 まず一番最初に飛びこむのはコンサートマスターの楽屋だ。弾む息を整えて、二回ノックをする。

「堀内さん、リハーサルの時間です」

 透が短くそう言ってからしばらくするとゆっくりと扉が開いた。

 メトロポリタン・フィルハーモニー管弦楽団、第一コンサートマスター、堀内篤史。

 一八〇センチを超える身長、細く、しなやかに伸びる腕と足。黒ぶち眼鏡とトレードマークである横一閃に切りそろえられた前髪は今日も健在だ。

「透くん、今日もよろしく頼むよ」

 そう言って左手を差し伸べる。一七〇センチ弱の透は堀内の顔を見上げながら左手で握手を交わす。堀内の右手には愛器のヴァイオリンが携えられている。

「この楽団でマーラーやるの久々だから今日が楽しみだったんだよ」

「僕もメトロポリタンのマーラー、楽しみにしてますよ」

「任せておきなさい」

 少し甘ったるい声でそう言い残し、堀内は舞台袖へと向かう。

 三年前、三八歳のときにコンサートマスターに就任。その後メトロポリタン・フィルを引っ張っている実力者だ。甘いマスクを備えていてご婦人方の人気も上々でコンサートのチケットの売上にかなり貢献している。最近ではソロやピアノとのデュオの公演も増えていて、人気の上昇は止まらない。

 堀内を送り出した透は次々と楽屋を訪れてはリハーサルの開始を告げて回る。メトロポリタン・フィルの楽団員はマイペースな人間が多く、透がお尻を叩いて回らないとなかなか動こうとともしない。ノック二回だけでリハーサルに向かってくれる堀内を透は心の中で感謝する。

 しかも今回の演奏会は厄介な楽団員に加えて大勢の合唱団も呼ばなければならない。合唱団が出演するのは五楽章のみなのでとりあえずは待ってもらう。

 まず挨拶するのは女声合唱団だ。第二リハーサル室のドアをノックし、返事を待ってからドアを開ける。

「埼玉混声合唱団の皆様、おはようございます。メトロポリタン・フィルハーモニー管弦楽団でステージマネージャーを務めております、八重樫透と申します。本日はリハーサル、およびゲネプロにご参加いただきありがとうございます。今日のリハと明日の本番と長丁場の一日になりますが、なにとぞよろしくお願い致します」

 透は深く頭を下げる。何事も第一印象が大事だ。

 すると一人の女性がすっと立ち上がり、口を開く。

「埼玉混声合唱団の副団長を務めております、香川です。メトロポリタン・フィルさんとステージを共にできるなんて光栄の至りでございます。微力ではありますが、私たちも精一杯努力させていただきます。よろしくお願い致します」

 香川が頭を下げると、他の団員も一斉に頭を下げる。

「ありがとうございます。只今から一楽章のリハが始まりますので、楽屋にてお待ちください。何かありましたら私は舞台におりますので、なんなりとお申し付けください」

 透はぺこりと頭を下げてそそくさとリハ室を後にする。

 扉を閉め、ふぅーと息を吐く。少し無理をして笑顔を作ったので表情筋がこわばるのがわかる。やはり初対面の人間を相手するのはまだ緊張してしまう。元々透は人づきあいがあまり得意ではない。いつまでも舞台に残ってあらゆる箇所の確認をすることは疲れを感じることなくいつまでもやっていられるが、こればかりはなかなか慣れない。

 さて、ともう一度気合いを入れ直し、今度は第三リハ室へと向かう。ノックをして入ると、携帯ゲームやスマートフォンに夢中になっていた少年たちが一斉に透の方に視線を向ける。

「えーと、江戸川区少年少女合唱団の皆さま、おはようございます。ステージマネージャーの八重樫といいます。今日はよろしくおねがいします」

 ステージマネージャーの仕事をしていても、なかなか小学生と触れあうことは少ないのでどのような姿勢で臨めばいいのか透にはよくわからず、なんともぎこちない挨拶になってしまった。

「今日はゲネプロへの参加、ありがとうございます。みんなの登場はまだ先だからもう少しここで待っていてくださいね。何かわからないことがあったらホールの人とか、僕に言ってください」

 はーい、という返事をするのと共に少年たちはまた友人とのおしゃべりやゲームに興じ始めた。よく言えば天真爛漫、悪く言えば緊張感がない。一抹の不安を感じながら透はリハ室を後にする。

 こんなことなら、音大に通っているときにピアノ教室の先生でもやっておくんだった、と後悔しながら舞台袖へと戻る。途中で楽屋を確認しサボっている楽団員がいないかをチェックする。誰もいないのをいいことにこっそりと楽屋に残って煙草をふかしている楽団員もいるので毎回チェックをしなければならない。本当に、学校の先生みたいだ、と透は思う。

 今日はなんとか全員が舞台に向かったようで、楽屋は全て空っぽだった。安心して舞台袖に辿り着き、最後の部屋へと向かう。舞台からは各楽器がチューニングする音が漏れ聴こえてくる。音楽の予感、いや、すでに音楽は始まっている。ただ、本当の音楽が始まるためには、もう一人、大事な人物が欠けている。

 舞台への入口の直ぐ隣に誂えてある部屋。静かに二回ノックをする。

「横溝さん、リハーサル開始時刻になりました」

 堀内よりも時間をたっぷりと間が空いてから扉が開く。

 メトロポリタン・フィル管弦楽団常任指揮者、横溝奏一郎は、無言のまま部屋を出る。 

 白いセーターとベージュのチノパンという私服に身を包み、革靴でごんごんと木材を踏みしめて、自ら舞台へ繋がる扉を開ける。右手には、一五〇人の音楽家に一人で対峙するための唯一の武器である指揮棒がしっかりと握られている。そうだ、リハーサルとはいえども、それは創造の場であり、また闘いの場なのだ、と横溝の背中を見るたびに透は思う。

 透は横溝の大きな背中を舞台袖から見送る。

 こうして、多忙な一日の幕が開いた。

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