三
リハーサル時でもステージマネージャーはあらゆる場所に動かなければならない。
まず、舞台から降りて椅子の配置をもう一度確認する。いくら透が細心の注意を払って椅子を並べたとしても実際に演奏者が座ると小さな誤差が見つかる。全ての演奏者の仕草を細かく観察し、譜面台の高さを変えたところ、椅子の位置を僅かに変えたところ、横溝さんが指示をして変わった配置など、全てを頭に叩き込む。明日の本番のセッティングの際に今の配置にしなければスムースに演奏に移ることができない。演奏者が舞台に入ってきた瞬間からすでに音楽は始まっている。演奏者の集中力の減少はそのまま聴衆の集中力の散漫に繋がる。
透としては、リハーサルであっても演奏者が座った瞬間に演奏が始められる配置にするよう心がけている。今までのコンサートの全ての配置をノートに書き留め、それぞれの楽団員の好みや特徴も把握するよう努めている。だが、いくら完璧に並べたと思っても、どうしても僅かな誤差が生じてしまう。仕方ないことだ、と心の中で割り切っていても、悔しさが透の中に残る。
「どうだ透、見栄えは悪くないか」
横溝の重厚なバリトンヴォイスがホール内に響く。マイクを通さずとも、横溝の声はホール内の隅々まで行きわたる。横溝が本気を出せば「第九」のバリトンソロだって立派にこなせるだろう、と透は日頃から思っている。
「ええと、ヴィオラの方々、客席側に三センチずれていただけますかー。そうですそうです。ありがとうございます」
「特に問題はないかな」
横溝は言う。
「はい。大丈夫です」
透のその一言に横溝は小さく頷き、譜面台に置いてあった指揮棒を手に取る。白髪のオールバックの後ろ姿を見ていると、どこか往年のセルゲイ・チェリビダッケを透は思い出す。横溝も今年で五九歳。日本クラシック界では重鎮の座を確立しつつある。メトロポリタン・フィルだけではなく、日本を代表するオーケストラ、JBC交響楽団での客演指揮や海外オーケストラなども指揮している。まさに円熟期に突入している。
そんな横溝奏一郎がマーラーのシンフォニーを指揮する。横溝がマーラーを指揮するのは透の記憶の中では六年前にJBC交響楽団と演奏をしたマーラーの交響曲第二番「復活」以来だった。
指揮棒を持った横溝はぴたりと呼吸を止める。
ふ、と指揮棒を振り上げ、間も無く振り下ろす。
刹那のあと、八本のホルンが咆哮する。
マーラーらしい雄大なホルンの旋律。反響板に跳ね返り、ホール内に充満する。
続いて弦・管楽器がリズムを刻み、合わせシンバルが煌びやかな装飾を施す。
透は一瞬息を飲み、その響きを体全体で味わう。
しかし、透は僅かな違和感を覚える。これはバンド本来の響きではない。透の耳がはっきりとそう告げた。
透の違和感を感じとったかのように、横溝はホルンの旋律が終わったところで指揮棒を止めた。
「ホルンの響きが足りないな」
ぽつりとこぼした横溝の不満が二階席で音を聴いていた透の耳にも届き、背筋がぞくりとする。
「透、本当にこの椅子の向きでいいのか?」
横溝は客席を振り返り、透を睨めつける。その声には明らかに不満が籠められていた。
「いえ、ベルを反響板の方に向けすぎました。今のままだと音がくもって聴こえ、ます」
「そうだな。俺にもそう聴こえた。わかっているなら奏者が息を吹き込む前にそうセッティングしろ」
「申し訳ありません」
横溝はまた演奏者に向き直り、ホルン奏者たちが椅子の向きを変えるのを待つ。透はその椅子の角度をしっかりと網膜に焼き付ける。透の中では八本のホルンの音量が大きくなりすぎてバランスが悪くなるのを恐れた結果、普段の演奏会よりベルを反響板の方に向けた。しかし、それが裏目に出てしまった。
椅子の配置変えが終わり、横溝は再び指揮を始める。
横溝の指揮に従い、ホルンが雄大な旋律を奏でる。
さっきのテイクとは全く違った響きになっていることに透は気がつく。旋律に輝きが増し、音がさらに広がりを持つ。そこに弦・管・打楽器の響きが加わり、音楽が構築される。椅子の角度をほんの数度変えるだけでバンド全体の音の響きは全く変わってしまう。やはりリハーサルの前に行われるセッティングは、実際の音の前では机上の空論に過ぎない、と透は改めて思う。
しばらくはオーケストラのリハーサルが進行する。透は二階をはじめ、三階席、一階席などを歩き回り音の響きを確認していく。そうした仕事をしながら、横溝の情熱的な指揮ぶりに魅せられる。横溝は楽団員に指示をしながら、時折前に垂れた白髪を左手でかきあげて再び後頭部に向けて収める。
その姿を見ながら初めて横溝の指揮姿を目の当たりにしたときのことを思い出す。
そのとき透は二十歳。まだ音大でピアノを専攻していた頃だ。その光景はコンサートから一四年経った今でも透の脳内に鮮明に刻まれている。
渋谷にあるJBCホールの三階席。曲目はリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」。JBC交響楽団の金管セクションが持つ重厚さを横溝の指揮によって十二分に引き出した名演だった。最後のロングトーンが消え去り、ホールに圧倒的な静寂が訪れ、横溝がゆっくりと指揮棒を下ろすと聴衆は堰をきったように拍手を始めた。鳴り止まない拍手。その拍手の前でわずかに微笑みを浮かべて一礼をする、若き日の横溝。
そんな中で透は拍手すらできないでいた。音楽という海に溺れたまま、顔を水面から出せないでいたし、そのまま顔を出したくなかった。
そんな横溝と今では同じ楽団で同じ音楽を作る同志として働いている。人生の数奇さを噛み締めながら透はまたマーラーの旋律に耳を傾ける。
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