リハーサルが三楽章まで終わり、ポストホルンのソロの響きも確認することができたところで一度休憩に入る。そこまでひたすらホールの中を歩き回っていた透も一階席の座席に座り、息をつく。目を閉じて、ここまで変更した座席などを一度整理する。

「大先生の大目玉食らっちゃったね」

 快活な声に目を開けると、そこにはリヒテスホール専属ステージマネージャー、下村音葉しもむらおとはが立っていた。

「やっぱり、聞いてましたか」

「大先生の声は舞台裏までばっちり響いてくるからね。あーやっちゃったーって思いながら裏でみんなと笑ってた」

「相変わらず性根が悪いなぁ。人のミスをちくちく笑うなんて」

「透くんの仕事の細かさが微笑ましいのよ。ああやって怒ってた大先生だって透くんの意図はしっかりわかってるはずよ。あれはミスを怒ったんじゃなくて、『細かいことを考えすぎるのは体に毒だぞ』っていう大先生なりの気遣いよ」

「気遣いだったらもう少し優しくしてくれてもいいと思うんですけど」

 そう言いながら、透は音葉の勘の良さに感嘆する。ホルンの音量を控えたいという透の意図を言葉ではなく椅子の配置から読み取っている。さすが女手一つでこの都心の巨大ホールを切り盛りしているだけある。弱冠三七歳という透と大きく離れていない歳で他の舞台職人や指揮者、ソリストたちと対等な立場から発言している。透がステージマネージャーの世界に足を踏み入れたときから舞台に関するいろはを教えてくれたこともあり、そんな音葉の仕事ぶりはいつも透の指針になっていた。

「私たちステージマネージャーはまずは素材を舞台の上に並べることが一番大事なのよ。まな板の上に魚を乗せるまでが私たちの仕事。包丁で鱗と落として、三枚におろして、マリネを作るのは指揮者なんだから」

 音葉は透と一つ開けた座席に座る。

「透くんは演奏者出身だから、自分で味付けしたいっていう気持ちもわからないでもないけどね」

「そんなつもりはないですよ。余計な心配をしてるだけです」

「ふふん。そうやってムキになるなんてまだまだ透くんも若いな」

 音葉はくすくすと微笑む。

「最近、桃香ちゃんとはどう? 仲良くやってるの?」

「仲良く尻に敷かれてますよ」

「透くんらしい。家でもステージマネージャーとして桃香ちゃんの下支えしてあげないとねぇ」

「でも油断してるとふらっと一週間くらい取材旅行だとか言っていなくなっちゃうんですよ。それでコンサート終わって家に帰ってみると、床にオーストリア土産をぶちまけたままベッドで大の字になって寝てたり」

「それまた桃香ちゃんらしい。その荷物を透くんが片付けるわけだね」

「片付けるっていうか押入れにぶちこんでるだけですけどね」

「いいなぁ。そんなかわいい彼女がいて。羨ましい」

「そんなこと言ったら旦那さんに怒られますよ」

「いいのよ、あんなヴィオラ馬鹿。私と話すよりもヴィオラと会話してる方が楽しいんだから。あんな人間と一緒にいたらこっちまでおかしくなってきちゃう」

 とは言いながら毎年結婚記念日は友人を大勢呼んでどんちゃん騒ぎをし「我々は世界一幸せな夫婦である!」と叫んでいるのを透は知っているので密かに小さく微笑む。

 さて、と音葉は立ち上がる。

「この後はアルトの長島さんも合唱も入ってくるね。ちゃんとP席のどこに座るか確認しないと。響きの確認は透くんよろしくね」

「サー・イエッサー」

 音葉は客席を出口に向かって上がっていき、照明のスタッフと打ち合わせを始める。透は交際している笹塚桃香ささづかももかの姿を頭に浮かべる。今日は確か来日したヴァイオリニストの取材にでかけると言っていた。明日はこのコンサートを聴きにくると言っていたが、風来坊の桃香のことだから予定を急遽変更することも大いにあり得る。

 それに、透がステージマネージャーを担当したコンサートを聴きにきた場合、その後のダメ出しが長い。家に帰ると桃香は酒をテーブルに用意して「座りなさい」と透を席へと促し、セッティングから「客の流れが悪い」「ちょっと場内が寒すぎた」など、演奏会の運営まで細かく指摘をしてくる。その指摘が的外れならば透も笑って聞けるのだが、いちいち的を射ているので透も苦々しい顔を浮かべてしまう。しかし、その指摘が透の糧となっていることも間違いない。邪険に思っているのも確かだが、ありがたいと思っている。

 透も舞台の裏へと向かい、女声合唱、少年合唱団に声をかける。リハ室から彼ら彼女らを連れて舞台の上に設えられているP席へと向かう。このように大勢の合唱が入る場合は、客席を舞台代わりに使う。

 さっきまでゲームやおしゃべりに没頭していた小学生たちも、リハーサルが始まる前になると顔つきががらりと変わった。無邪気な少年でありながら、立派な音楽家であると透は思う。

 全員が席につくと、透は正面の座席に戻り、きちんと左右対称になっているかどうかを確認する。視覚的に理路整然と並んでいるか、ということも音楽に影響する。まちまちなセッティングで聴く音楽と、シンメトリに並んだ演奏者たちが奏でる音楽とではやはり印象は違ってくる。

「女声の方々、あと拳一個分だけ間隔を空けてください。はい、そうです。それで一歩上手側に動いてください。そこですそこです。少年合唱団の方々は逆に下手側に一歩動いてください。そう、もう半歩。そこです。ありがとうございます」

 今、合唱団は真正面を向いているが、音の響きを考える合唱団を少し中心に体の向きを変えたほうがいい、とも思ったが先ほどの音葉の助言もあり、その変更は控えた。あとは合唱指揮の先生と横溝に判断してもらったほうがいいと透は考える。

「本番は四楽章と五楽章の間で立っていただきます。そのタイミングはあとで練習しましょう」

 そこまで見届けて透は再び舞台裏に戻る。この数時間の間に透は舞台の中を何周も回っていて、毎日がマラソン大会になる。

 堀内の楽屋の隣の楽屋の扉をノックする。その中にはアルト独唱の長島琴乃がいる。合唱団よりも少しあとに楽屋入りし、待機していた。

 体よりも少し大きめの真っ赤なニットを着て、短いスカートからは細い足がすらりと伸びている。長島琴乃は最近売り出し中の若手であり、リサイタルも好評を博している。今回、マーラーを歌うのは初めてであり、マネージャーからは本人も張り切っていますよ、と聞いている。

「よろしくおねがいします」

「はい」

 短く返事をしただけなのに、その声の美しさがありありとわかる。わずかにハスキーがかった声はどこまでも上品であり、まさに歌うために磨き上げられた声だ。

「本番では横溝さんの意向もありまして、一楽章から舞台に出ていただきます。今日はとりあえず四楽章から参加していただき、ホールの響きなどを確かめていただきます」

 その透の言葉に対して琴乃は何も言わなかった。

 琴乃が舞台に入り、リハーサルが再開される。

 四楽章の少し愁いを帯びた旋律を琴乃は見事に歌い上げる。その歌声はもはや「若手」という言葉で形容するには申し訳ない。しっかりとした説得力を帯び、艶も感じさせる歌声。マーラーが作曲当時熱中していたというニーチェの『ツラトゥストゥラはかく語りき』の一節を朗々と歌い上げる。曲を引っ張る横溝の指揮にも力が入る。

 アルトのソロが終わると、続いて登場するのは第五楽章の合唱。まずは四楽章のブリッジの部分で立つタイミングを練習する。さすが女声も少年合唱団も舞台慣れしているだけあって数回の練習だけでぴったりと合わせられる。

 最初のテイクは少し緊張が残っているのか、響きが浅い音になったが、繰り返し演奏するにしたがって、ホールの響きにも慣れて声が出るようになる。彼ら彼女らの声はホールの中で増幅していき、ついには他の楽器と混ざり合い、豊かな響きを奏でる。透は三階席の一番後ろで聴いていたが、そのしなやかな音楽はホールの隅までも届いていた。

 これなら大丈夫だ、透は半ば演奏の成功を確信した。

 しかし、演奏の成功と演奏会の成功は決してイコールではない。演奏会の成功に達するためにはまだ様々なハードルをクリアしなければならない。とは言うものの、演奏が形にならなければ話にならない。とりあえず第一関門突破はしただろう、と透は及第点を自分に与える。

 リハーサルは最終六楽章まで全て終了し、横溝は指揮台から降り、舞台袖へと戻っていく。透も横溝とのまとめの打ち合わせをするために舞台袖へと向かう。

 透が舞台袖へと繋がる扉を抜けようとすると、女声に立ちふさがれた。

「ちょっといいですか」

 美しい声が聴こえる。その声を聴いた瞬間、透の体の中に「嫌な予感」が走る。

 そこには、明らかにご機嫌斜めの表情を浮かべた長島琴乃が腕を組んで立っていた。

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