五
佐川公彦、十三歳。
国際コンクールの参加はこれが初。多くのコンクールに出場している透でも佐川の名前を見るのは初めてだった。
十三歳という若さで本戦まで残っているというニュースは国内メディアで大きく取り上げられ、その影響もあり、本戦のチケットは即日完売だった。
透はできるだけコンクールの最中は他の演奏者の演奏や音源などを聴かないように努めていた。しかし、自分の演奏はすべて終わり、あとは結果を待つのみとなった今、やっと他の音楽に触れるだけの精神的な余裕が生まれた。透はまだ整わない呼吸をゆっくりとなだめながら、舞台から聴こえる拍手の音に耳を傾ける。
曲目はシューマン作曲、ピアノ協奏曲。ブラームスの恩人であり師匠であり、恋敵。
拍手がおさまると、直後、弾けるような弦楽器の音が聴こえ、その音を切り裂くようにピアノの音が響いた。
その音を聴いて、透は目を見開いた。
激しい下降音型を描いてピアノの音は流れるように舞台袖まで伝わってくる。
透の耳には、一音目からすでに違って聴こえた。
なんだ、この音は。
透の頭は混乱する。
今までの人生の中で、聴いたことない音だった。
どんなプロの演奏でも、自分が紡いできた音でも、出会ったことのない音。
チューバの低音よりも空気を大きく揺るがせ、ピッコロの高音よりも体の中心部まで届く。
あんな小さな体で、どうやってこんな音が出せるのか、透にはまったく理解できなかった。
冒頭の数小節だけで、透が作り上げたホールの雰囲気を一変させた。舞台裏で座っている透には客席の様子は窺うことはできない。しかし、聴衆が息を飲む様子が手に取るようにわかる。瞠目し、体を強張らせ、緊張感が走っている様が想像できる。まさに透自身もそんな状態に陥っていた。まがりなりにも二十年以上ピアノと過ごしてきた透もそんな状態なのだから、ましてや聴衆の驚きはさらに大きいものに違いない。
これはとんでもない演奏になる、と透は思った。まだ演奏が始まって一分も経過していないのに、期待感がこみ上げてくる。
一楽章の中間部、しなやかかつ繊細な鍵盤さばき。決して派手ではない。ピアノの旋律という大きな川の流れの中で、静かに泳ぐ小魚のような繊細さ。しかし、川の流れとまさに一体となって下流へと流れていく。決して止まることなく、淀むことなく、流れる。川のせせらぎの心地よさと、水面にほとばしる日光の輝き。そんな自然の美しさすら体現するような音の数々。
その中にはしっかりとした美しさだけではなく技術があり、聴くものを説得させるだけの力が込められている。決して独りよがりの美しさではない。演奏するものと聴くものが調和できる。美しさを共有できる。
ゆったりとした二楽章が始まり、さらに下流へと流れていく。川の流れはさらに大きくなり、雄大さと壮大さを帯びていく。
そしてアタッカで三楽章に突入する。
弦楽器による鮮やかな上昇音型、それに呼び覚まされたようにピアノは気高い歌声をあげる。喜びが爆発し、ホールいっぱいに響き渡る。オーケストラ、客席、ピアノ、すべてが一体となって大きな流れを作る。
透は無意識のうちに椅子から立ち上がっていた。
そして、ふらふらと前に進み、舞台の方へ歩んでいく。
やはり佐川の姿は見えない。どんな表情で弾いているのかも、どんな指の動きをしているのかも、どれだけ汗を流しながら弾いているのかも、透の目には決して届かない。
しかし、音楽の素晴らしさだけは確かにとどいてくる。
透の中に二つの感情が同時に沸き起こる。
一つは激しい憎悪だ。
これまで長い時間をかけて作り上げてきたピアノが瓦解していく。そして、これからどれだけ練習してもこれだけの演奏をすることは絶対にできない。そう思うと、十四歳という若さでここまでの境地に到達している佐川に対して激しい憎悪を覚える。
完璧だと思っていた自分の演奏が、たちまち瑣末で、平凡で、無価値なものへと姿を変えていく。自分が見た音の輝きはすべて幻であり、舞台の上で噛み締めた「生」の感覚は偽物だった。今聴いている輝き、今見ている響きこそ、本物の音楽だ。そして、その音楽は自分が産み出したものではない。
透の体の表面を、そんな憎悪が覆いかぶさる。
しかし、それはあくまで「二次的な感情」にすぎなかった。
透の体の中にこみ上げていたもう一つの感情、それは無限の喜びだった。
佐川の奏でるピアノを聴いていると、音楽の底のない美しさ、喜びを体で感じることができる。
いつまでもこの音楽を聴いていたい、いつまでもこの流れに身を浸していたい、いつまでも、この音楽が終わらなければいいのに。透は心からそう思っていた。今すぐにでも舞台袖を抜け出して、客席に行き、目で、鼻で、口で、肌で、耳で、そのすべてを感じ取りたい。そうしなければ、この後必ず悔いるときがくる。この音楽を全身で受け止めなければ、必ず後悔する。
それは音楽がもたらす最大限の喜びだった。
透の中で喜びが膨れれば膨れるほど、それに伴って憎悪の感情も膨れ上がる。
透の体は二つの感情によって引き裂かれ、破裂寸前だった。
今すぐにでも耳を塞ぎたい。しかし、いつまでもこの音を浴びていたい。
全く正反対の欲望に満ち溢れ、透はどうすることもできなくなっていた。
曲が終結部を迎え、勢いを増していく。川の流れは最大級まで大きくなり、その先には広大な海が見える。喜びという名の、どこまでも広がる海。その海に向かってホール内の人々は流れていく。
いつの間にか、透は涙を流していた。
二つの瞳からとめどなく涙が溢れ、頬を伝って舞台袖の床に落ちていく。
透は自分が泣いていることに気がつき、さっきまで音楽を紡いでいた両手で何度も顔面を拭う。それでも、涙が止まることはない。栓が壊れた蛇口のように、次々と流れる。それが喜びの涙なのか、悲しみの涙なのかは透にもわからない。とにかく、涙が流れつづける。
さっきまで暗闇を象徴していると思っていた舞台袖も、佐川の音楽によって明るく照らされているように見える。本物の音楽には明暗という二元論など関係ない。すべてを明るく照らし、暗闇を消し去る。透は舞台袖と舞台を分裂させ、舞台袖にいるべきではないと思った自分を激しく恥じた。どこにいようとも関係ないのだ。自分がその場所を輝かせなくてはならないのだ。なのに、自分は、自分は。透は、何度も何度も自戒の言葉を繰り返した。
最後の上昇音型が響き、ティンパニのロールとともに最後の音がホールに響く。もう、フェルマータの最中から、場内からは拍手が起こっていた。音が途切れた瞬間に、観客の熱狂的な声がホールに響く。その拍手や歓声も、音楽のように透には聴こえた。
舞台から聴こえる拍手の中で、透は泣いていた。
進むことも、弾くことも、座ることも、倒れることもできない。
透がそのときできたことは、自分を切り裂こうとする喜びと憎悪によって自分が壊れないように自制することくらいだった。
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