六
第六回十和田湖国際ピアノコンクールは佐川公彦の史上最年少優勝によって幕を閉じた。
クラシック界の若きニューヒーローの登場に、メディアは熱狂し、コンクール終了直後にシューマンのピアノ曲を集めたアルバムの発売が決まり、クラシックのCDとしては異例の売り上げを記録した。
その後も佐川は国内のオーケストラはもちろん、海外とのオーケストラとも共演を重ねている。海外にもファンが多く、国内のリサイタルに来る海外ファンも少なくなかった。
透はコンクール前に決意した通り、ピアノの道はここで諦めた、というよりは諦めざるを得なかった。
自分はあの領域に絶対に行くことはない、ということを佐川のピアノに思い知らされた。もしかしたら今回のコンクールを最後にピアノを辞める、と決めていなくても、あのピアノを弾けばピアノの道は諦めたのかもしれない。それだけ力の差を見せつけられた。
しばらくはピアノを弾くこともおろか、生きるための気力が湧かないでいた。これからどうやって生きていくかもわからない。何を糧に生きていけばいいのかもわからない。コンクールが終わってからその年のうちは大学にも行かず、家に引きこもるような生活を繰り返していた。
しかし、そうしているわけにもいかない、と思い、音大の指導教授である
あゆみは椅子にもたれながら、頭を下げる透をじっと見つめ、それから口を開いた。
「私はね、八重樫くん。他人の力で食い扶持を見つけようという人間がこの世で一番嫌いなの」
透の予想していたような言葉が返ってきた。あゆみの普段からの言動を聞いていれば、このように突っぱねられることは容易に想像できた。
「でもね、八重樫くん」
その声に、透は頭を上げる。
「自分の教え子が路頭に迷う姿を見なきゃいけないのはもっと嫌いなの」
厳しい口調、厳しい表情で、あゆみはそう言った。
それからの流れは早かった。
あゆみの紹介でリヒテスホールのホールスタッフの仕事の面接を受け、合格し、コンサート運営の仕事を開始した。
二十二年間、ほとんどピアノとしか対話をしてこなかった透にとって、ホールスタッフの仕事は苦難の連続だった。仕事の中で他者との綿密な連携を図り、ホールの案内係を任されれば、不特定多数の観客とコミュニケーションを図らなければならない。
慣れない環境の中で、透は必死に働いた。
ピアノを失った自分には、この仕事しかない。
いかに効率良くステージをセッティングできるのか、いかに観客をスムーズに誘導できるのか。何度も失敗し、何度も自分の仕事を考察し、何度も成功し、そしてまた失敗した。
そうする中で、透の仕事ぶりがリヒテスホールを拠点としていたメトロポリタン・フィルの横溝の目に留まり、当時のステージマネージャーがあと二年で定年退職するということもあり、その後任を探していた横溝は透に声をかけた。
透は二十九歳のときにメトロポリタン・フィルの副ステージマネージャーとして就任、三十一歳に正ステージマネージャーに昇格し、今に至っている。
「なんだよ八重くん、ぼーっとして」
隣から聴こえてきた実島の声に我に返る。
透はとても長い間記憶の中を彷徨っていた意識を元いたホールに呼び戻す。
ちょうど二重協奏曲の二楽章の最後の音の余韻が消えていく。やはり少し冗長な残響。客席が埋まればもう少し残響が短くなってちょうどよくなるだろうか、と透は考えを巡らせる。
「八重ちゃんしっかりしてくれよ。今年の秋にはバルセロナ公演だって控えてるわけだし、これから向こうのホールの人との打ち合わせだって大変だろうに」
二年に一度、メトロポリタン・フィルは海外公演に赴いていて、今年はスペイン・バルセロナのバルセロナ・シティホールでの開催が決定していた。透もステージマネージャーとして、現地の運営スタッフと繰り返し打ち合わせを行っている。どれだけ椅子があるのか、譜面台があるのか、搬入口から楽屋への経路、舞台袖の広さ、舞台裏の楽屋の配置など、現地から送られてきたホールの見取り図と合わせて詳しく調整する。今のうちからセッティング表や当日の演奏者の動きを決めておかないと練習も始められない。
「もうすでに大変ですよ。向こうのスタッフも僕も、お互いに英語が拙くて。しかも日本人の世界初演の曲もあったりで打ち合わせにてんやわんやです」
「そっか、石黒さんの曲やるんだもんな。あの人の曲なんてステージマネージャー冥利に尽きるんじゃないのか」
「スコアもらって見てみましたけど、一ページ目にいきなりセッティング表が書いてあってびっくりしましたよ」
「さすが鬼才、
「たまったもんじゃないですよ。向こうのホールの形状と石黒さんの提示してるセッティング表が合致するかどうかもまだわからないですし、とにかくセッティングが奇抜すぎるんですよ」
「そりゃあ楽しみだ。その曲にはトロンボーンはあるんだろ?」
「六本編成で」
「まじかよ。オーケストラでまさかの六管編成。マーラーもびっくりだな」
実島はからからと笑う。
「まぁとにかくしっかり頼むよ八重ちゃん。このバンドの成長は君の手にかかってるんだから」
「そんな心にもないこと言わないでください」
「バレたか」
実島は顔をくしゃくしゃにして笑い、客席から去っていった。透はあの実島が見せる少年のような笑い方が好きだった。どこまでも音楽を楽しもうという姿勢や、横溝や堀内にはない親しみやすさも、透にとっては安心感を与えてくれている要素だった。
透は椅子から立ち上がり、気を取り直してセッティングの調整のために耳に神経を注ぐ。墨田夫妻はまた楽器を構え直し、三楽章の演奏が始まった。
本番の日を迎え、客席の開場が始まる。
横溝は開演中、常に舞台袖の椅子に座って待機をしているため、透は楽器の移動がある墨田夫妻の楽屋につくことになった。楽屋から舞台袖まで階段を降りるということになると、特に幹弥はチェロを壁などにぶつける可能性があるため、誰かが下でサポートをしなければならない。だから透は一曲目が始まったら上の墨田夫妻の楽屋へ向かって待機し、時間になったら誘導をするという段取りを決めた。
開演時間になり、チューニングが始まる。客席の照明がゆっくりと落ち、客席のざわめきも引いていく。
そして、沈黙を測って透は舞台袖から横溝を送り出す。湧き起こる拍手。横溝は指揮台に昇り、小さく頭を下げる。オーケストラの方に振り返るとすぐに曲をスタートさせた。一曲目はレスピーギ作曲の「ベルファゴール序曲」。不穏な音楽が始まり、舞台上のボルテージが上がっていく。
二曲目に控えるのがブラームスの二重協奏曲だ。透は舞台袖を離れて一つ上にある楽屋へと向かう。
ノックを二回すると「はい」と淑子の声が聴こえる。
「八重樫です。入ります」
透がゆっくりと扉をあけた途端、強烈な違和感が透を襲った。
透が頭に描いていた楽屋の風景があまりにも違ったからだ。
大らかな淑子が微笑みを浮かべ矢継ぎ早に言葉を紡ぎ、それをひたすら頷いて応える幹弥。そんな夫婦像を描いていたが、その部屋に広がっていた光景はその想像からあまりにもかけ離れていた。
あれだけ豊かな表情を湛えていた淑子の顔から一切の表情が消えていた。凍りのように冷たい表情。生気が一切感じられない。身に纏っている華やかな黒いドレスにすべての感情を吸い取られてしまったかのように、淑子はそこに座っていた。ぴったりと閉じられた膝の上にはヴァイオリンがひっそりと寝かされている。
それに対して、幹弥は舞台袖で透が見たものと同じ表情を浮かべ、待機をしていた。ダークスーツを細い体に纏って、左手にはチェロを抱え、じっと座っている。
透は何も言いだせずに、ただ扉の近くに立ちつくした。
これはどういうことだろうか。あれだけおしゃべりな淑子も本番の前にはさすがに本番前は極度の緊張に襲われるのだろうか。それとも、淑子の身に何かが起こったのだろうか。そうだとすればステージマネージャーとして何かケアをしなくてはならない。そんなことを考えるくらいに淑子の表情は普段と一変していた。
そんな中で透が打つ手に困っていると、幹弥が口を開いた。
「君の音楽は最低だよ」
淑子の表情と同じくらい、冷たい言葉が、小さな楽屋の中に響いた。
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