「で、なんでついてきたの」

 離陸直後、隣で機内食を食べている桃香に向かって透は言った。

「いいじゃない、別に。記事にしたいコンサートがあるところならスペインでも月でもどこへでも行くのが音楽ジャーナリスト精神だからさ」

「でも別に僕についてくることはないんじゃないの。一人で勝手に行けばいいじゃないか」

「透と一緒に行きたいんだからいいでしょ」

 桃香は暖かいハンバーグを食べながら恥ずかしげもなく言う。透の方が少し気後れしてしまった。

 夜中に羽田を出発し、今は経由地であるドーハに向かって移動している。飛行機に乗る直前まで、練習場にあったパーカッションなどの大型楽器を空輸する準備をしていたため、透の体には重い疲労がのしかかっていた。すでに体の節々が痛み始め、座席に座っているだけでも腰に鈍い痛みを感じる。これから二十時間近くこの席に座り続けなければならないことが今の透にとって何よりも苦痛だった。

 ステージマネージャーはコンサートホールだけが職業領域なのではなく、ホールから離れた練習場のセッティングもしなければならない。そして練習場からホールへの楽器の移動もステージマネージャーが責任者として動く。練習場で楽器の梱包をして、ホールに輸送してもらい、ホールでまた梱包を解く。今回のような海外公演になれば、さらに厳重に梱包をしなければならないため、労力も増える。今日は合奏が終わった夜八時から梱包を始め、すべての準備が終わったのが十一時だった。梱包を終えると家にも戻らず、スーツケースを持ってそのまま羽田に直行し、なんとか飛行機に間に合った。

 桃香は十日ほど前に透が持っている航空券の座席を確認すると、すぐに空席照会をし、たまたま透の隣の席が空いていたため、飛び乗ってきた。今は透の疲れを知ってか知らずかおいしそうにワインを飲みながらデザートに舌鼓を打っていた。

「石黒定好は一回会ってみたかったんだよね」

「インタビューしたことないの?」

「JBC交響楽団が石黒定好の作曲を取り上げたときの記者会見は行ったかな。でもそのときはたくさん記者がいたから詳しい話は聞けなかったし」

「やっぱり記者としては石黒定好のバリューは高いわけ?」

「日本人はおろか、海外だって作曲家で食べていくのは大変だからね。やっぱりコンサートでメインに取り上げられるはバッハから後期ロマン主義までの音楽だし。そんな中でこれだけ支持を集めるってことは特筆すべきことだと思うよ」

 桃香はワインを一口飲む。

「今は誰もが自分の創作物を発信できる時代じゃない? 生産者と消費者っていう構図が破綻しつつあって、誰しもが生産者と消費者の二つの側面を負っていると思う。昔から人の内面が変わるからメディアが変わるんじゃなくて、メディアが変わるから人の思考が変わるっていうことは言われてて、ネットメディアが台頭したことによって人間の自己顕示欲が急速に膨張したと私は思ってる。でも、石黒定好は自己顕示欲とはまた違う欲求で芸術を編んで、人から評価を受けた。そのプロセスに興味がある。つまり、石黒の芸術自体に興味があるってよりは、石黒の行動原理の解明に興味が向いてるってのが現状かな。芸術と自己顕示は表裏一体だと思うけど、石黒を突き動かすものは一体なんなのか、文学の作家論みたいなことがしたいわけですよ、私は」

 理路整然と語る桃香の声を透はハイネケンを飲みながら耳を傾けていた。こうやって音楽を音楽単体ではなく「人間の営み」として考察する姿勢には透はいつも尊敬の念を抱いていた。

「今はネットの媒体とか、雑誌の記事くらいしか書けないけど、いずれかは私も単著を出してみたいってのもあるし」

「でっかい夢だね」

「そだね。でも、それはあくまで通過点だよ。雑誌の記事だって論文書くのだって本を出すのだってその先にある暫定的な真実を掴む過程だしね。音楽と現代の人間の心がどうつながっているのかを解明するためにはまだまだやらなきゃいけないことがたくさんある」

「そういう壮大な人生観、僕も欲しい」

「透の人生だって十分壮大だよ。挫折と努力に彩られたステージマネージャーの人生。いいじゃない。本にしたい」

 桃香はくすくすと笑う。

「確かに、桃香になら僕の伝記を書いてもらいたいかも」

「そのときは嫌っていうくらいにしつこくインタビューするから覚悟しておいてね」

 桃香はグラスに残っていたワインを飲み干し、深い息をつくと窓の外に視線を移した。透はハイネケンを飲みながら、その凛々しい横顔を横目で眺めていた。



 横溝の指揮棒の動きに合わせて、舞台の中心に据えられている弦楽九重奏が華やかな旋律を歌いあげている。麗らかでロマン的な旋律が進行していくと、横溝の指揮が突如激しくなり、不協和音を中心とした金管コラールが響き渡る。

 透はリハーサル中のバルセロナ・シティホールの客席にいた。

 バルセロナ・シティホールの内装は日本のホールではほとんど見られないような豪華絢爛な作りになっている。柱には精巧な作りの彫刻が所狭しと施され、椅子の一つ一つのデザインも非常に凝った作りになっている。二回席の周りはステンドグラスがはめ込まれていて、日の光が差し込むとホール内が色彩豊かな光でいっぱいになる。余計なデザイン性を排除することで音質の向上を極めているようなホールに比べれば音の質は劣るかもしれないが、それを上回るだけの視覚的な美がこのホールにはある。耳で音楽を楽しみ、目でホールの内装を楽しむ。この空間にあるすべての要素が「芸術」と呼ぶにふさわしかった。その芸術性は、世界文化遺産に登録されたことからも世間に広く認知されている。毎年数十万の観客がこのホールに来場し、五感を通じて芸術を楽しんでいる。

 バルセロナ・シティホールと石黒の「九重」は非常に相性が良い組み合わせのように透の耳には聴こえた。西洋音楽をモチーフとしながらも「九重」、つまり宮中で催されるような雅楽の調べに通ずる和音が随所に登場し、和の響きと洋の色彩が複雑に絡み合って非常に幻惑的な音楽に止揚されている。

 鏡をとりつけたことにより、後ろを向いている直管楽器奏者たちもタイミングを逸することなくコラールを演奏している。指揮は鏡で見えても、舞台の構造上トロンボーンパートとトランペットパートはお互いを見ることができない。しかし、そこはリュウメイ・ヒデの名コンビの手によって一糸乱れぬアンサンブルを繰り広げている。客席から見ていると奏者が息を吸い込むタイミングなどもわかりにくくなっていて、突然音が鳴り始める印象を受ける。しかも壁に反射して音が攪拌されるため、どこから聴こえてくるかも明瞭ではなく、緊張感と幻想的な響きを醸している。

 ステージ両端に置いてある設置されている鍵盤楽器も独特の響きを音楽全体に添加し、その神秘性に説得力を付け加えている。視覚・聴覚的な芸術が融合して重なり合っていき、渾然一体となった世界はもはや宇宙をも想起させるまでに至っていると透には思えた。やはり、練習場で聴いたときの演奏とは全く違う世界がここにある。横溝の指揮も練習場のときと比べると熱の入り方が全く違う。白髪を振り乱しながら、情熱的に演奏を引っ張っていく。

 ただ一点、透の心につかえていることがあった。それは、客席後方に置かれている二つの鐘だ。

 舞台からは遠い場所に置かれていて、直管と同じように幻想的な響きを客席に届けている。演奏効果としては大きいものが見込めると透も思うし、客席にあることは正解に思われる。

 しかし、鐘が今置かれてある場所が、果たして「最高の場所」だろうか、と考えると疑問符がつくように透には思えた。

 スコアのセッティング表には「客席後方に設置」としか書かれていない。横溝の指示によって今は一階席に置かれているが、透が二階席に上がって聴いてみたところ、二階席がせり出している部分、つまり一階席後方の天井に鐘の音が反響し、音が二階席に上がってくるまでにかなり小さくなってしまうのだ。聴こえなくはないが、二階席の観客からは鐘を叩く奏者の姿も見えないので、どこまで鐘の音を自覚して音楽として観客が処理できるか不安な部分が残っていた。

 しかし、この案件は「演奏」に関することであり、「セッティング」に関することとはまた違う。指揮者でも演奏者でもない透が「演奏効果をあげるために鐘を移動させるのはどうか」と音楽監督である横溝に進言していいのだろうか、という迷いが透の中にはあった。今のところ、横溝は鐘の場所に関して言及していないところをみると、舞台上で聴いている横溝にとってはこのままでいいのかもしれない。しかし、透は「鐘は二階席後方に置くべきではないか」と思っている。ステージマネージャーとしてこのことを横溝に言うべきなのだろうか。それとも、演奏に関することは口を慎むべきなのか。

 春に行われたコンサートでの出来事が想起される。墨田幹弥の冷酷な言葉、仕草、思想。そして、透を同じ音楽家としては認めていないかのように楽屋で見せた本性。偽りの姿を見せるべき人間ではないと判断され、同等の立場ではないと判断されたあの日。果たして、自分は音楽家として、演奏に口を挟んでいい存在なのか。透の頭の中には雑多な言葉がぐるぐると渦巻いていた。

 透はまた一階席まで降りてきて、この葛藤をどう処理しようか考えていると、客席の後方の扉がゆっくりと開いた。

 透が扉の方を見ると、一人の男が入ってきた。

 作曲家・石黒定好、その人だった。

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