二
石黒定好、五十二歳。
静かながらも鋭い眼光。白と黒が混じった薄い髪の毛。顎には無精髭が蓄えられ、荒れ果てた庭のように茂っている。肌は浅黒く、太陽の光を受け続けていることが見受けられる。真っ黒に染められた麻のシャツを着て、対談相手の方をまっすぐ見据えている。
その男が持つ得体の知れない圧力を、透は写真を通して感じた。
その圧力は石黒の容姿だけではなく、石黒の「異色の経歴」からも感じられる。
石黒は音楽大学や専門学校で作曲の専門的な教育を受けていない。完全に独学で作曲技術を磨いていった。
そして石黒は兼業作曲家であり、高校の国語の教員を本職としている。鳥取県にある私立学校に二十年以上勤め、その傍ら作曲活動を行っている。
石黒は自分が勤める高校の弦楽部で顧問をしており、その弦楽部が演奏するための音楽をひたすら書き続けていた。その私立学校の全校生徒数は百人ほどであり、弦楽部の人数も一学年に五人ほどしかいない。その中で、一学年だけで演奏できる弦楽四重奏や、部員全体で演奏できる弦楽セレナーデなど、数々の音楽を創作していた。
高校生に向けた曲ということもあり、どの曲も非常に平易でヴァイオリンの初心者でも一年練習を積み重ねれば演奏できるくらいの難易度になっている。
しかし、その音楽が持っている独特な雰囲気は芸術の域に価する。「九重」ほどではないものの、実験的な楽器配置の指定がされてあり、バロック、ロマン主義、印象派、現代音楽などの様々な技巧が入り混じり、新しい世界を切り開く音楽として名高い。
そんな質の高い音楽を多く作り出した石黒であったが、そもそも「作曲家」という職業に就くつもりは毛頭なかったという。
自分の作った曲を作曲コンクールに出品するということも一度もなく、他の作曲家に師事して作曲家として名を上げるという活動は一切行ってこなかった。とにかく自分の生徒たちのために音楽を創り、生徒たちが満足して演奏してもらうことを念頭に置いて作曲を続けてきたという。
そんな石黒が世間の脚光を浴び始めたのは、今から五年前のことになる。
きっかけは動画投稿サイトに石黒が顧問を勤める弦楽部の定期演奏会の映像がアップロードされたことだった。動画をあげたのは部員の保護者などの関係者であり、石黒の音楽を世に広めようとした意図はまったくなかったとされている。しかし、その動画がSNSを通じてクラシックファンの中で徐々に拡散され、その動画の再生回数は十万回を数えるまでになった。そのうちに評論家の目に石黒の音楽が留まるようになり、ブログや雑誌で紹介されるようになり、石黒の音楽は石黒の意思とはまったく関係ないところで高い評価を得ていった。
SNSで拡散された翌年、鳥取県の小さな市民ホールで行われた弦楽部の定期演奏家には多くのファンが詰めかけた。それまでは生徒の保護者や友人が集まって慎ましく行われていた演奏会が、突如チケット即完売のコンサートのような様相を呈し、学校関係者はその対応におわれたという。
渦中にいた石黒はその当時の状況をインタビューの中でこう振り返っている。
「私と私の生徒が創ってきた音楽は常に一級品だった。こういった喧しい事態は好きではないが、このように私たちの音楽が広く評価を受けること自体、驚くことではまったくない」
透は石黒にはまだ直接会ったことはなかったし、声も聴いたことはなかったが、その自信に満ち溢れたような言葉が淡々とした、静かな口調で透の頭の中で再生された。
その後、石黒のもとに作曲依頼が舞い込むようになり、本業である教師の業務に支障をきたさない程度に依頼を受注し、プロやアマチュアのオーケストラなどに楽曲を書き下ろしている。
今回の交響曲第九番「九重」はメトロポリタン・フィルの委嘱作品であり、世界初演である。石黒の作曲家としての評価は海外でも多くされ始めているが、その評価を確立するために、今回の演奏会を計画した。
「あー、またズレた」
疲労が蓄積されてきたのか、実島の声もだんだんと勢いがなくなってきている。
「トランペットとのコラールは練習積み重ねるしかないけど、せめて指揮が見えるようになれば全然違うんだけどなぁ」
実島は目の前の壁に向かってぶつぶつと不満を漏らしている。
透もそんな実島の様子を見ていると、ステージマネージャーとしてどうにか解決の糸口を探したくなる。しかし、セッティングを変えるわけにもいかない。壁に向かうように座れ、というのがスコアの指示であり、この楽曲の最大の特徴でもある。そこを揺るがすことは、この曲の根幹を脅かすことに繋がる。
もし、この曲をリヒテスホールでやるとしたらどうしたらいいか、と透は考える。リヒテスホールは指揮者を中心に金管奏者も緩い弧を描いて座るような配置になっている。やはりトロンボーンとトランペットが後ろを向いたらお互いの楽器も見えず、指揮者も見ることはできない。しかし、そのままでは完璧な演奏をするのは困難だ。こんなとき、自分ならどうするか。
リヒテスホールの舞台の上にいるのではなく、一度客席に身を置いて考えてみよう、と透は考える。そこから何が見えるか。客席、舞台、弦楽九重奏、直管奏者の背中、その背後には、巨大なパイプオルガン。
パイプオルガン。
そうか、と透は心の中で指を鳴らす。
「パイプオルガンの奏者と同じようにすればいいんじゃないですか」
透がそう言うと、実島は後ろを振り返り、透を見る。
「パイプオルガン? 俺たちに急にオルガン奏者になれってか」
「違いますよ。みなさんは今、パイプオルガン奏者と同じ立場にいるってことですよね」
舞台の後ろにパイプオルガンが設置されているホールの場合はパイプオルガンの奏者は指揮者に対して完全に背中を向けている。そのため、奏者はオルガンの譜面台の上部に取り付けられている小さなテレビで指揮者の姿を見るのだ。
「さすがにみなさんの譜面台すべてにテレビをつけるのは不可能なので、今回は鏡で代用してみましょう。譜面台をほぼ垂直に立てて、その右上に鏡を取り付ければおそらく後ろが見えるんじゃないかと」
透がそう言うと、ヴィオラを弾いていた奏者が自分の楽器を隣の奏者に預けて自分の鞄に走り、手鏡を取り出した。
「透ちゃん、とりあえずこれ使ってみて」
「ありがとうございます」
受け取った手鏡を、透が常日頃持っている養生テープで貼り付け、固定する。
「おぉ。まだ角度は定まってないけど、ちゃんと見える」
実島は笑顔になり、楽器を構える。
「じゃあ直管奏者の数だけ鏡を用意しましょう。今から買いに行ってきます」
透はそう言って自分の鞄を持ち、練習場を後にする。
これでまた譜面台の位置をすべて変えて設定しなければならないな、と考えながらひとまず百円均一のスーパーに走った。
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