第三章 作曲家 石黒定好の場合

「無理だ! 合わない!」

 実島はトロンボーンを降ろして叫ぶ。

「実島! でかい声だすな!」

 横溝の声が指揮台から飛ぶ。

「横溝さん、いくらなんでもこれは無理ですよ。見えない人間とどうアンサンブルすればいいんですか」

「パルスを正確に刻めばいいだけだろう」

「といってもですね、その基準である指揮すらも俺たちは見えないんですよ。絶対ズレますってこんなの」

 実島は普段から感情を露わにすることが多いが、合奏中にここまで声をあげることはさすがに少ない。しかし、叫び声をあげるのも無理もない状況に楽団員たちは今いる。

 京王線の調布駅と中央線の三鷹駅を結んだ直線のちょうど中間地点にある練習場にメトロポリタン・フィルのメンバーは次の演奏会に向けて練習をしていた。

 その演奏会というのは来月十月に控えているバルセロナ公演。メトロポリタン・フィルが定期的に行っているこの海外公演は、海外ファンの獲得のためにも重要な位置づけをされていて、練習も怠ることはできない。

「はい、じゃあDの六小節前アフタクトから」

 横溝は低い声で指示を出し、指揮棒の先で譜面台をカチ、カチと二回叩いてリズムを測る。テンポは四分音符八十二とゆったりとした流れ。

普通の合奏だったら指揮台を叩いてリズムを鳴らすなんてことは絶対にしない。しかしそれをしなければ合奏を始めることができない。

 リズムを鳴らした直後、トロンボーンのゆったりとしたコラールが始まる。長調を基調としているものの、シャープやフラットなどの臨時記号を多用することによって不協和音が生じ、ほぼ無調音楽になっていた。

 コラールが六小節終わると、そこにトランペットのコラールが重なってくる。やはり頻繁に登場する臨時記号により、整った調性と不協和音が不規則に現れては消え、現れては消え、聴いている者の心を揺さぶる。

 そしてコラールは途中で休符を挟み、音楽が途切れ途切れになる。そのこともまた、聴いている者に不安定さを植え付ける。

 四回目の休符のあと、トロンボーンとトランペットの入るタイミングが僅かにズレたが

そのまま音楽は続行される。しかし、一回狂ってしまった歯車を直すことはできない。休符のごとに入るタイミングのズレが大きくなっていき、最後には殆ど音楽の流れは崩壊してしまった。

「あー! やっぱりできない!」

「いい加減にしろ、実島!」

「だって仕方ないでしょ! 見えない指揮にどうやって合わせればいいんですか!」

 実島はそう叫ぶ。

 そう、実島が率いるトロンボーンパート、そして隣に並んでいるトランペットパートは指揮者に対して座っているのだ。

 一般的、というよりクラシック音楽のほぼ全ての曲は、奏者は指揮者の方、そして客席の方を向いていることが想定されている。それはあまりにも自明であり、奏者が前を向いていることを気にかける人間はほとんどいない。

 しかし、この「交響曲第九番『九重』」は違う。

 トロンボーン・トランペットの直管部隊は完璧に指揮者に背を向けて、壁を目の前にして座っている。だから直接に指揮者を見ることができない。

 直管の配置だけでも奇抜だが、他の楽器も奇抜さを極めている。

 まず、弦楽器奏者は九名しかいない。

 ステージの中央に位置する場所にコントラバスを中心にして半円を描くような形になっている。コントラバスを二台のチェロが挟み、チェロの横には二本のヴィオラ、そして一番外側にはヴァイオリンがそれぞれ四本ずつ座っている。弦楽八重奏の形にコントラバスが加わっている形だ。普通のオーケストラ編成より弦楽器の数が大幅に縮小されている。

 そのすぐ後ろには横一列にホルンが六本並んでいる。

 そして、ステージの上手と下手にはビブラフォン、マリンバ、シロフォンなどの鍵盤打楽器がそれぞれ一台ずつ置かれている。そして、指揮者のすぐ両脇に、大きな鐘が二つ設置されている。透が手にしているセッティング表によれば、その大きな鐘は本来は客席の一番後ろに一台ずつ置くように指示されている。

 透はセッティング表を初めて見たときには正直驚いた。まず一つは「九重」というタイトルと自分の「八重樫」の「八重」が符号している。透は中学生の頃に覚えた「いにしへの奈良の都の八重桜 今日九重に匂ひぬるかな」という百人一首の歌を思い出した。

そして、その音楽の内容に驚く。確かに、この作曲をした石黒定好という現代作曲家は奇抜な音楽を創り続けている。調、変拍子という音楽的な要素だけではなく、非常に実験的なセッティング指示をすることも多い。しかし、楽器が指揮者を向いていないというのは透にとっても初めての経験だった。

 楽器が壁に向いていることで、直管のコラールが直接体に到達することなく、壁によって乱反射した音が体を包み込むように聴こえる。目の前にあるステージから音が聴こえてくるのではなく、音が天から降ってくるような、遠く遠く山の向こうから聴こえてくるような響き。弦楽アンサンブルは極めて後期ロマン主義的な、王道の音楽を繰り広げている。そして、その王道の響きを否定するかのように、管楽器の無調の響きがどこからともなく降ってくる。その対比的な旋律にステージ両側にある鍵盤楽器のアクセントが加わり、切迫感を帯びる。

 本来は客席の中にある鐘が重く、澄んだ音を響かせると、音楽の流れが止まり、荘厳な鐘の音だけがステージに響く。そして、また音楽が生まれる。そのように創造と否定の繰り返しによって音楽が膨らんでいき、神秘的で幻想的な響きをステージいっぱいに響かせることができる。

 しかし、壁を向いているトロンボーン・トランペットのアンサンブルが決まりづらい。二十分ほどの楽曲だが、今までで最初から最後まで演奏できたのはわずか三回だけだ。最後まで通った演奏を聴くと、透も感慨深いものがあった。ただ、まだまだ完璧とは言い難い。直管とホルンと弦楽器のアンサンブルが完璧にかみ合うのはかなり難しい。透の耳にもまだ改善の余地があるように聴こえる。

「八重ちゃん、これなんとかならんのかね」

 実島は助けを求めるように透の方を見る。

「いや、セッティングはほとんど作曲者の注文通りなので大きく変更することはできないですね。微調整はききますけど、セッティング表に『直管は壁に向けて座る』とはっきり指示されちゃってますからね」

「裏切り者!」

 実島はそう言ってまた後ろを向き直り、譜面に濃い鉛筆で書き込みをする。

「まぁまぁヒデよ。カリカリするなって」

 そう言うのはメトロポリタン・フィルの首席トランペット奏者である菊谷隆明きくたにたかあきだった。

「リュウメイだってタイミング合ってないじゃないかよ。まずこの二パートが合わないと推進力が失われるだろ」

 実島と菊谷は首席直管奏者としてメトロポリタン・フィルで長年コンビを組み続けている。感情を露わにしやすい実島といつも冷静沈着な態度を保っている菊谷は相反する性格であり、ぶつかり合うこともあるが、酒を飲み交わせばどんなわだかまりも一夜にして消滅している。実島は隆明から「リュウメイ」と呼び、菊谷は秀夫から「ヒデ」と呼ぶ仲である。

「またあとでパート練しよう。ヒデだってコツを掴めばすぐにものに出来るはずだよ」

 菊谷がそう言うと実島は渋々頷いてまたトロンボーンを構える。

 この練習場での練習は残すところあと二日。他のコンサートの練習もしなければならないため、いつまでも「九重」を練習しているわけにもいかない。その練習のあと、ホールを借りての練習が入っている。ホールの広さを利用して客席にある鐘の響きと壁を反射させる直管の音を確認しなければならない。ホール練までには演奏を完璧にしなければ響きを確認することはできない。

 横溝はまた指揮棒を構えて、指揮台を二度叩いてタイミングを送る。するとまた神秘的な響きが練習場の中を覆う。

 その響きに体を漂わせながら、透は先日読んだ雑誌に掲載されていた石黒定好の特集に記憶を呼び覚ます。

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