七
「家で練習したときも同じこと君に言ったよね。ユニゾンの均衡が取れてないって。チェロの低音を君のその忌々しいヴァイオリンもどきの音が掻き消しているんだよ。低音を聴くことができないヴァイオリン奏者なんてもはやヴァイオリン奏者ではないよ。自分の演奏のことしか考えてない。周りのバランスなんて君の頭には毛頭ないんだ。掛け合いの部分だってまったく合ってない。バンドともコ呼吸を合わせられない、僕のチェロとも釣り合うことができない。二人のリサイタルのときだってそうだ。伴奏のピアノとも合わせられない。何度も何度も同じところでミスをする。君は学習しないのか? そんな腕でよく舞台の上に上がれるな」
「ごめんなさい」
幹弥が矢継ぎ早に言葉を述べ、その辛辣な言葉の羅列に対して、淑子は一切反論せず、一言だけ謝罪の言葉を述べる。
「君と一緒にいて満足にいく演奏ができたためしなんて一度もない。今はいいよ。君だってまだ若い、美貌も社交性もある。まだ君は客寄せの役割を果たすことができている。テレビ番組の出演だってまだこれからは増えていくだろう。しかしどうだい、その客寄せとしての機能だって君が老いればどんどん低下していく一方だ。そうなったときに試されるのが演奏力だろう。演奏力だって年を取れば衰退していく一方だよ。もちろん熟練の技、なんてコピーをつければまだ馬鹿な客は寄ってくる。でも質の低い演奏をしていればリスクは高まる一方だよ。君が完璧な演奏をしてくれなければ、僕のビジネスが立ちいかなくなるんだ」
「ごめんなさい」
扉の前に立っていた透はまだ混乱していた。普段メディアやコンサートの場で見せる二人の表情は今ここにはない。常に笑顔で、どんな人間に対しても明るく接する淑子の表情は消え、笑顔の淑子の横で朴訥で、しかし柔和な表情を浮かべている幹弥の表情も消えている。
あの表情は偽物なのだろうか。今の表情が本物の二人なのだろうか。
メディア面は淑子が主導権を握り、演奏面が幹弥が主導権を握る、と考えてもこの幹弥の言い方は度を越しているとしか透には思えなかった。透も横溝や指導教授であるあゆみからも厳しい言葉を投げつけられることもあるが、そこにはやはり自分に対する思いやりが感じられる。透を成長させたいという想いが受け取れる。しかし、ここにはそんな想いや、愛は欠片も感じられない。ただの中傷でしかなかった。
「まぁここまで言っても君のヴァイオリンの腕はこれ以上上達することはないんだろうけどね。クラシックを聴くような暇な人間にはこれくらいの演奏で十分だと言えば十分だろうし」
幹弥の言葉が、徐々に透の心の中に激しい感情をこみ上げさせる。
「君はせいぜい客寄せパンダとして頑張ってくれればいいよ。客には良質な音楽なんて聴かせる必要はない。客はどんな演奏に対しても均一の金額を前払いしなければならないからね。もちろん、僕は詐欺行為に近いと思うよ。もし演奏に見合った金額を後から払うシステムであれば、あんな酷いブラームスに対して一銭も払いたくないしね。客がチケットを買った時点で、僕らの勝ちなんだ。だから、君は客にチケットを売らせればそれでいい。あとは適当に弓と振り回してれば儲かるんだからね。君は君を演じ続けろ。僕は僕を演じ続ける。それだけは肝に銘じておいてくれ」
「はい」
淑子は凍った表情のまま頷く。
君は君を演じ続けろ。幹弥は冷たくそう言った。あの淑子の屈託のない笑顔はすべて演技だったというのか。あの演奏で見せた二人の密な関係は、演技だったのか。じゃあ、リハーサルで自分が感じた喜びは、幻想だったのか。透の頭の中でいろんな疑問が渦巻く。
おそらく、横溝を始めとする演奏者はこの二人の関係に気がついていないのだろう、と透は思う。他者が存在しない楽屋の中だからこそ見せる本性、それがここにあった。そして、この二人の本性はステージマネージャーだからこそ、見ることが「できてしまった」ことであり、それは同時に、幹弥も淑子も自分のことを「演じるべき相手」として認めていないことでもある、と透は思った。
幹弥の言葉に、ステージマネージャーと演奏者の決定的な溝を見出してしまう。それは拡大解釈の結果だとは透も思うが、やはり、劣等感を覚える。
透は何かを言いたかった。
淑子さんのヴァイオリンは素晴らしかったです。幹弥さんが言うような演奏では決してなかった。
リハーサルで感じた僕の喜びを否定しないでください。あなたたちの演奏は本当に素晴らしかった。
お客さんを、金儲けの道具として見ないでください。演奏者も、お客さんも、僕も、コンサートを創るために欠くことはできない一員なんです。
あなたに音楽を否定する権利なんてない。
透の喉にはたくさんの言葉がつっかえていた。
しかし、その言葉を外に放出することができない。
言いようのない劣等感が、その言葉たちを堰き止める。
自分には侵すことができない領域がここにはあって、その領域をただ傍観し、そして演奏の時間になったら扉を開けることしか自分にはできない。そんな言葉が透の頭の中にはっきりと現れ、何度も払拭しようと思ったが、できなかった。
「君は僕に生かされているんだ。僕がいなかったら、君は音楽家としてやっていけない。君レベルのヴァイオリン奏者なんてそこらじゅうにいる。君は僕の言われたまま墨田淑子を演じ続け、舞台の上で踊っていればそれでいいんだ。わかるね?」
「はい」
「ならいいんだ」
淑子の表情は一切動かない。どうやったらこの顔があれだけ柔軟に様々な感情を表現できるか透にはわからない。
あの笑顔は本当に偽物なのだろうか。それとも、笑顔のときの淑子が本当の淑子で、本当の人格を抑圧してここに座っているのだろうか。
透は左手にした腕時計を見やると、誘導の時間が近づいていた。
「そろそろ移動のお時間です。お支度をお願いいたします」
違う、そんなことを言いたいんじゃない。
透は思う。しかし、透の意志とは違うことを口は話し続ける。
「階段を降りる際は私が誘導しますので、ご安心ください」
すらすらとそんな言葉が口から出てくる。
二人はゆっくりと立ち上がり、透が扉を開けると楽屋を出る。透は二人の前を歩き、階段をゆっくりと降りる。
舞台袖に着くと、ちょうどベルファゴール序曲が終了した。会場からは大きな拍手が起こり、横溝が舞台袖に帰ってくる。短いカーテンコールを行ってから、横溝は自分の椅子に腰掛ける。
透はまだ自分の気持ちを整理できてないでいたが、コンサートは前へ前へと進んで行く。スタッフたちが舞台上にソリスト用の椅子をセッティングする。その様子を確認しながら、横溝の方を見るとそこには快活な笑顔で横溝と話している淑子の姿があった。
きゃらきゃらとした笑い声が聴こえてくる。
底なしに明るい、その笑顔。
そして横には柔和な表情を浮かべてチェロを抱える幹弥がいる。
その二人の表情を透はただただ、見つめることしかできなかった。
透の頭には、いつまでも淑子の偽物の笑い声だけが響いていた。
『へぇ、あの夫婦にそんな一面があったのかぁ』
青森市内のホテルの一室。時間は午後十二時半。演奏後の打ち上げも終わり、ホテルに引き揚げたところにちょうど桃香から透の携帯に電話が入った。
他人の秘密を誰かに言うのは気が引けることだったが、やはり言わずにはいられなかった。「記事にはしないで」と念を押して、桃香に今日起きたことの概要を話した。
『私としては普段の夫婦よりもそっちの方が取材したいなぁ』
「変なゴシップ記事になるだけだよ」
『いやぁ、建前なんて取材しても仕方ないからさ。どんな極論であっても、その人の本音が混じってる方が私としてはおもしろいし、記事にしてみたい』
「そんなもんかな」
演奏は透が舞台袖で聴く限り完璧なものだった。
一糸乱れぬアンサンブル、オーケストラとのバランスも申し分ない。観客の反応も最高としか考えられなかった。演奏が終わったあとの淑子は上気した顔で横溝と抱き合い、その喜びを爆発させていた、ように透には見えた。
そんなはしゃぐ淑子に視線を送る幹弥の優しさも、透には本物に見えた。その姿に観客は熱狂していたし、誰もその二人が分厚い仮面をかぶっているなんて思うはずもなかった。
打ち上げでも、淑子はテンションを落とすことなく誰とでも会話を交わし、幹弥の不満を言いながらも惚気るような言動も見せた。それを聞きながら楽団員たちは朗らかに笑っていたし、誰もそれが嘘だと疑う人間もいなかった。
「なんか、人間の本性ってなんだろうって考えちゃったよ」
『本性か』
「あの二人の普段の顔が偽物だとしたら、その偽物の演奏で感じた僕の喜びは本物なのか、とか」
『うーん』
と、唸ってから桃香は沈黙する。
『いや、そんなことない』
そして、きっぱりと言った。
『人間の性格に本物も偽物もないよ。場によって表情とか言動を使い分けているのなら、どっちも本物だし、どっちもその人の性格だと思う』
「どっちも、か」
『大多数の人に見せる顔だって、特定の人だけにしか見せない顔だって、その人の顔であることは違いないでしょ。だから、全部本物。それなら、透の喜びだって本物ってことになるでしょ?』
桃香はなんでもないような口調で言った。そんな桃香の何気ない言葉によって、透は体がふと軽くなるのを感じた。
『それに、今回は度を超してるかもしれないけど、どんな人にでも、どんな時でも同じ表情しか見せない人の方が私はちょっと怖いけどね。それができるのは本当の天才しかいないと思う』
本当の天才、まるで佐川公彦のような。
『ま、私はそうやって不器用に物を考えちゃう透が好きなんだけどね』
透は自分の顔が赤くなるのがわかった。
「んじゃ、おやすみー。帰る時間わかったら連絡ちょーだい」
そう言い残して、桃香は電話を切った。
透は携帯の画面をオフにして、ベッドに倒れ込む。そして、はぁ、と深く息をつく。
こうやって、何気ない言葉で自分を救ってくれる桃香が、透は好きだった。
≪二章 了≫
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