四
下手の舞台袖から現れた青年は、圧倒的に完璧な青年として透の眼に映った。
すらりと伸びた長い手足。遠くから見てもわかる高い身長。天から釣られたように伸びた背筋。若さに満ちた表情。整えられた髪。上質なワイシャツ。軽やかな足取り。煌めく革靴。頭の先から、足の先まで非の打ちどころがない。
ピアノの横で佇んでいた透の目の前まで悠然と歩き、立ち止まり、そして右手を出す。
「佐川です。よろしくお願いします」
口の間からは笑みと白い歯が零れる。
「八重樫透です。よろしくお願いします、佐川さん」
透は出された右手を握り返す。
今、自分はどんな顔をしているだろうか。
果たして、きちんと笑顔を作れているだろうか。脳は明らかに「笑え」という指示を表情筋に送っている。しかし、途中の中継基地で電波が完全に変換され、表情筋に指示が辿り着くころには「殺意に満ち溢れた表情をしろ」というものに変わっている恐れもある。しかし、握手をする佐川の表情は変わらない。ということは、それなりに自然な表情を浮かべているのだろう、と透は推測する。やはり、自分の顔は自分で見ることはできない。自分の顔を見ることができるのは、相手の顔を見たときだけだ。
「あと十分でリハーサルを開始したいと思います。演奏の中で何か不都合な点がありましたらなんなりとお申し付けください。楽屋の場所にご不満はありませんか?」
「はい。舞台袖に非常に近くて安心しています。国外のホールには結構動線が整備されていないものが多くて、なんだかほっとします」
「わかります。僕もやっぱりこのホールで仕事をするときが一番安心できます」
佐川は透の言葉ににっこりと微笑んで応えた。
透はその笑顔を見ながら、とても自分と十歳近く歳が離れているとは思えなかった。佐川を見ていると自分の卑小さが否応なく認識され、いたたまれない気持ちになる。
「調律もまだこれからできますので、弾いているときに不具合があったらおっしゃってください」
「わかりました。ありがとうございます」
佐川はそう言ってピアノに視線を向ける。鍵盤の横に立ち、長い人差し指でチューニングで使うAの音をポーンと鳴らす。佐川は客席の方に向き、ゆっくりと目を閉じる。ピアノの澄んだ音がホールを覆い尽くす。透は目を閉じて響きに耳を傾ける佐川をじっくりと眺めた。佐川は照明を反射して輝いている。自分にはない輝き。佐川にしかない、輝きを目に焼き付ける。
下手の舞台袖から今回のコンサートの指揮を務めるヘゲドゥシュ・ラユムンドが現れ、佐川と握手を交わす。ラユムンドはハンガリー出身で四十二歳の中堅指揮者。次世代のクラシック界のエースと目され、今注目を集めている。世界的に人気が高いラユムンドと佐川の共演ということもあり、今回のコンサートは国外からも高い関心が寄せられている。
『佐川、ショパンコンクール受賞おめでとう』
『ありがとう。またこうして共演できることが本当にうれしいです』
二人は流暢な英語で言葉を交わしながら強く拳を握りあった。
『僕もこの世界に入って二十年近く経つけど、ショパンコンクールの優勝者と共演するのは初めてなんだ』
『それはとても光栄です』
『お手柔らかに頼むよ、ヴィルトゥオーゾ』
『こちらこそ、マエストロ』
二人は笑顔で言葉を交わし合う。
もはや、透にとっては手の届かない世界が二人の間に形成されていた。
頂点を極めた者だけが知っている空気、雰囲気、世界。
透はその世界を、ただただ外から眺めることしかできない。二人の間に割って入り、その世界の構築に一役を買うことは、透には困難としか思えなかった。
と、考えたところで、頭を小さく振って脳内に残っている言葉を払拭しようとする。違う。こんなことを考えるべきなのではない。今日という日を楽しまなければならない。桃香の言葉を聞いて誓ったではないか。透は目をぎゅっと瞑り、ぐんと見開いて思考をリセットする。
『お二人とも、そろそろリハーサルをお願いいたします』
透が言うと、佐川はピアノに座り、ラユムンドは指揮台にスコアを置く。
透はその姿を見届け、上手の舞台袖へと向かう。
舞台袖の暗闇に入ると、透は大きく深呼吸をした。この数分の時間が何時間もの長いひと時に感じられた。
「透くん大丈夫? 顔が真っ青」
顔を上げると、音葉が心配そうな表情をして立っていた。
「えぇ。ごめんなさい。ちょっと立ちくらみしただけです」
「大丈夫。相手はいつもと変わらない指揮者とピアニストよ。他の演奏者たちと何も変わらない。ちょっと人より耳が良いだけの普通の人間と、ちょっと人よりピアノがうまいだけの普通の人間よ。化物相手にしてるわけじゃないんだから、しゃんとして立ち向かいなさい」
音葉は透の落ちた肩にそっと掌を添える。
「音葉さんは透に甘いなぁ」
舞台袖の奥から秦の声がする。
「透も良いオトナなんだから、過去の想い出なんてさっさと海にでも放り投げて忘れちゃえよ。楽しまなきゃこの仕事はやっていけないだろ」
「演奏者の精神構造とステージマネージャーの精神構造はちょっと違うのよ。ファゴット馬鹿の秦くんにはわからないでしょうけど」
「俺はファゴットを吹くことしか能がないですからね。リード咥えて息を吹き込めば透みたいなうじうじした考えは忘れちゃうけど」
「いいからリハーサル準備をしてきなさい」
「はーい」
音葉に促されると秦は舞台へと向かう。
「ま、秦くんもああ言ってるけど心配してるのよ」
「知ってます。あいつは人の心配をすればするほど口が悪くなりますから、昔から」
透が十和田湖ピアノコンクールで佐川に負けて塞ぎこんでいたときも「一回負けたくらいで辞めたいと思うくらいならもう一生ピアノなんか弾かなくていい」という最大級の威力を持った言葉を透にぶつけてきた。透もさすがにその言葉には激昂し、大喧嘩にまで発展したが、秦に様々な言葉をぶつけることで体内に溜まりに溜まったどす黒い感情を言葉としてアウトプットすることができ、自分の気持ちの整理にも繋がった。秦がそこまで意図してやっていたかどうかは透にもわからなかったが、今でもその一件は秦に感謝している。
「秦くんの言うことにも一理あるしね。仕事に没頭すれば考えたくないことも考えなくても済むかもしれないし。とりあえずセッティングの最終確認がんばって」
音葉は透の背中を掌でぽんと叩く。
「はい、行ってきます」
やはり、誰かに支えられて、誰かに背中を押されて進んでいくのが人生なのか。
透は桃香の言葉を思い出しながら、客席へと向かった。
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