三
「ただいま」
透は自宅の扉を開けて、小さい声で言う。腕時計を見るとすでに夜十二時を数分過ぎていた。リヒテスホールを出たのが九時過ぎ。悠に三時間近く歩いてきたことになる。まさか六本木から東京と神奈川の県境を流れる多摩川にほど近い自宅まで歩く日が来るとは思っていなかった。
歩いている間に音楽アプリにいれた佐川公彦の音源をすべて聴いてしまった。ショパンに始まり、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ショパンの協奏曲二番、バルトーク、そしてあの日聴いたシューマンのピアノ協奏曲。十二年前よりも佐川は確実に腕を上げていた。音の輝きに一層磨きがかかっていた。一周聴き終わってはもう一度最初から聴き直し、それを繰り返しながら音によって照らされた闇の中を歩き続け、ついに自宅まで辿り着いた。
桃香になんの連絡もいれていなかったので心配しているのかもしれない、と思いながらリビングをあけると普段と同じ表情を浮かべながら日本酒を小さなおちょこに注いでいた。
「おかえり。随分遅かったね」
桃香はおちょこから目を離さずに言う。日本酒をなみなみに注ぐとそのまま口に運んでずずず、とすする。
「やっぱり佐川公彦を相手にするんだから張りきってるのかな?」
「まぁ、当たらずとも遠からずって感じかな」
透はジャケットを脱ぎながら事のあらましをぽつぽつと桃香に話して聴かせた。最初は目を丸くして聴いていたが、最後の方は日本酒を飲みながらいつもの表情で聴いていた。
「透もそういうバカみたいなところあるんだね」
桃香ははっきり言った。
「こんなストレートにバカって人から言われたの久々かもしれない」
「私もバカなんて言葉口にしたの久々だよ。でもバカじゃん。疲れて家に帰ろうとしてイヤホンで音楽聴き始めたらテンション上がっちゃって電車乗りたくなくなったから三時間歩いて帰宅したわけでしょ? このあらすじを聞いてみてどう? 自分のことどう思う?」
「バカだな」
「でしょ」
桃香はくすくす笑いながらまた日本酒を口に注ぐ。
透も桃香の斜め横に座ると用意されていたおちょこに桃香が日本酒を注ぎ、ふたりで軽くおちょこを合わせる。十時くらいであればドビュッシーのピアノ曲などをかけて二人で聴くが、今日は日も跨いでしまったため、近所迷惑防止で音楽はかけていない。音楽のない晩酌。二人の喉を日本酒が通り抜ける音だけが響く。
「透にとって、今回の演奏会はどんな意義があるんだろう」
桃香は前を見据えたまま言う。桃香ももちろん十和田湖のコンクールのことは知っている。今までの交際の中で佐川とのことについて二人で深く話すことはなかった。クラシックライターである桃香が佐川の記事を書かないわけがなかったし、透も桃香が敢えて佐川の話題を避けてくれていたこともわかっていた。
しかし、公演を控えているこの時期、この話題を避けることはできなかった。
「これもたくさんある仕事の中の一つってだけなのかな。それとも、違う意味を持っている?」
透は日本酒を飲みながら考えを巡らせるものの、なかなか具体的にまとまらない。しかし、口は開いて言葉が一つ一つ紡ぎだされる。
「一つの仕事として淡々とこなそうと思ってる。自分の過去に固執して、他の演奏者やソリストと差をつけてしまっては、やっぱり他の演奏者にも佐川さんにも失礼にあたると思う。僕がやることは変わらない。良い音楽を創る、それだけだよ」
「それは、建前としての言葉?」
桃香に隠しごとなんてできるわけがない。ただでさえ、透は嘘をつくのが苦手だった。
「やっぱり、佐川さんは僕の人生の中で大きく立ちはだかった障害であることには変わらない。彼がいなかったら僕はピアニストとして活動していたかもしれないし、その一方で彼がいたからこそ僕はステージマネージャーとして働くことができている。彼は僕にとって大きな敵であると同時に、偉大な師であるとも言える。そんな人を目の前にして、淡々と仕事をできるとは僕には思えない。僕はそこまでオトナじゃないしね」
「透は正直だな」
「正直じゃなきゃ社会人はやってられないっていうのが僕のポリシーなんだ」
「良い心がけだと思う」
結局、明日をどんな心情で過ごすのかということは透にもわからない。十二年の経験を重ねた佐川公彦と相対して、果たしてどんなことを思うのか。それは期待でもあり、大きな不安でもあった。
「今はどんな気持ち?」
「わからない。でも、いつものリハーサルの前日とは全く違う。全然眠くないし、寝たくない。寝たら明日が来ちゃうし、でも寝なくても明日はやってくる。そのことが怖くもあるし、はやく来てほしい気もする」
「悩めるお年頃だなぁ」
「三十にして立ってるはずなんだけどね。自立なんてできる気がしない」
「自立してる気になってる人の方がだめだよ。人間なんてどこまでいっても支えられないと生きていけないんだから。寄りかからないと生きていけない、って思ってるくらいがちょうどいいと思う」
「そう言ってくれると気が楽になる」
「佐川のことも、敵だなんて思う必要はないんじゃないかな」
透は桃香の横顔を見る。桃香は前を見ながら肘をテーブルにつき、両手で持っているおちょこを口に近づける。
「音源聴いたら歩いて帰ってきちゃうくらいに興奮するわけでしょ? それって佐川の音楽を愛してるってことだと思うんだよね。私にはそう思える。でも、透にはあの記憶がある。記憶によって聴いている音楽をねじ曲げようとしている」
「ねじ曲げようと、か」
「チェリビダッケも言ってたでしょ。音楽は体験だよ。その場限りの勝負なんだよ。確かに、透もたくさんつらい思いをしてきたし、大きな挫折をしてきた。でも、そのことと今生み出されようとしている音楽を楽しむことはまた別じゃないかな。透は今生まれる音楽を精一杯楽しめばいいんだよ」
やはり、桃香には勝てないと透は思う。桃香がいなければ、自分はステージマネージャーとしてここまでやってこられたのだろうか。透はすぐにその仮定を否定する。桃香の言葉がなければどこかで本当に真っ二つに折れていただろう。それを自分だけで修復するには多大な体力を要する。人は寄りかからないと生きていけない。透はまさしく桃香に寄りかかって生きていた。
「桃香が僕の伝記を書くことになったら、今日の夜の会話は重要なエピソードとして描かれるのかなぁ」
「もちろん。弱虫な透を描写するには欠かせない夜だからね」
桃香は透の方を向いて笑う。
「でも、透が弾くブラームスも聴いてみたかったな。伝記を書くにあたって、その演奏を生で聴いたことがないのはかなり痛い」
「音源も残ってるかなぁ。実家に戻ればあるかもしれないけど、もう押入れの奥深くで眠ってるかもしれない」
「掘り出しなさい。命令です」
「実家に帰ったらね」
透はおちょこを傾けて空にする。するとまた桃香が日本酒を注ぐ。
揺れる水面に映った自分の落ち着きを持っている顔を見て、透は少し安堵した。
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