ショパン、ピアノ協奏曲第一番。

 夜更けの六本木を闊歩しながら全身で摂取したあの音楽。あの音楽が、ここで生まれようとしている。

 透は二階席の中央に立ち、舞台を眺めた。透が整然と並べた椅子には楽団員たちが座り、その中心には佐川とピアノが対峙している。ラユムンドが右手を降ろすとオーケストラが曲を奏で始める。昨日聴いた音源と同じ曲。しかし、この世に同じ音楽など一つもない。楽団が同じでも演奏するごとに違った音楽になり、指揮者が変われば全く違う音楽になる。その組み合わせはほぼ無限だ。全ての演奏に個性があり、演奏が行われればそれが唯一無二になる。このリハーサルのテイクも、本番とは違った唯一無二の音楽になる。透はそう確信する。

 昨日聴いた録音よりも僅かに遅いテンポで音楽は進行し、曲が始まって四分半が経過しようとしたところで、佐川が動いた。

 全く無駄のない動きで鍵盤を叩く。背筋は歩いていたときと同じように天井に向かってぴんと伸びている。長い五本の指が鍵盤に触れている様が二階席からもはっきりとわかる。

 佐川はラユムンドの指揮を見るでもなく、鍵盤を見るでもなく、斜め上の宙に視線を向けてピアノを叩く。まるで視線の先にある「何か」に対して捧げるためにピアノを弾いているかのように透には見える。

 タッチの正確さ、音楽の壮大さ、雄大さ、煌びやかさ、そのすべてが昨日聴いた録音を上回っていた。肌はけば立ち、背中には寒気にも似たような感覚が走る。今立っている場所から足を動かすことができない。あのときと同じように、舞台裏から動けなくなったときと同じあの感覚。視線は佐川のピアノに釘付けにされ、耳は佐川の奏でる音楽以外の音を遮断する。

 そのピアノに応えてラユムンドの指揮も熱を帯びていく。明らかにいつも聴いているメトロポリタン・フィルの音とは違う。横溝が創りあげる、重厚かつ温厚で、確かな説得力を帯びた音楽とはかけ離れている。全ての演奏者から湯気が立ちそうなくらいの熱気、ホール内の温度が上がりそうなまでの音量、低音も高音も際立ち、鮮やかな音がホールの中を縦横無尽に跳ねまわり、駆けまわり、飛び回っている。横溝の音楽とラユムンドの音楽のどちらが優れている、という問題ではない。ただ、いつもとは明らかに雰囲気が違っている。ショパンとラユムンドと佐川とメトロポリタン・フィルが劇的な化学反応を起こし、激しく燃え盛っている。その焔が、透の眼にははっきりと映った。

 透は必死に今繰り広げられている音楽の穴を見つけようとする。職務上、今リハーサルで行われている音楽、セッティングが抱える課題を見つけ、その課題を解決しなければならない。透は耳を全開にして音楽のすべてをあますことなく体に取り込み、そして綻びを探す。

 しかし神経を集中すればするほど、その音楽の素晴らしさが勝手に理解されてしまう。この音楽に課題などない。そんなものを見つけだすのがおこがましいほどの音楽。この音楽には何を付けくわえてもいけないし、何を取り除いてもいけない。今起きているこの現象こそが、最高であり最上だ。それは一音楽ファンの透の意見でもあり、ステージマネージャーとして、職業人としての透の意見でもあった。

 こんな音楽に太刀打ちできるわけがない。

 自分が持っているものでは、目の前で生じている音楽に立ち向かうことができない。

 石黒の言葉が思い出される。

 音楽の前には人は無力。

 その言葉を、こんなところでも実感してしまうとは。

 透は、この音楽の前では裸も同然だった。

 今まで培ってきた経験も、知識も一切役に立たない。

 漂うショパンに体を預けることしかできない。それしか、するべきではない。

 この流れに抗おうという方がおかしいのだ。

 二楽章の音楽がホールにたゆたう。一楽章の速いパッセージを弾く佐川の上半身はそこまで大きな動きはなかったが、二楽章のゆったりとした音楽が始まると、その大きな体をしなやかに揺らし、その力を指先に伝え、鍵盤を叩き、旋律を奏でる。音と音が繋がり、そして音楽が創られていく。音楽は一つの音だけでは成立しない。他の音との差異の中に音楽は生まれる。それは音だけではない。人と人との差異、その関係性の中にこそ音楽が生まれる。ヴァイオリンとヴィオラの違い。チューバとコントラバスの違い。ロータリートランペットとピストントランペットの違い。フレンチホルンとウィンナーホルンの違い。そして、透と佐川の違い。すべてのものはすべてのものと関係をして、その差異の中にすべてが凝縮されている。音楽はそうした人と人の間に生じるのだ、と透は思う。

 ゆったりとした二楽章が終わり、音が止んだ瞬間三楽章に突入する。軽快なテンポ。一楽章とは違い、前の音源よりもテンポが大分速い。ラユムンドは指揮をしながら後ろをちらりと振り返り顔を綻ばせる。心の底から楽しそうな表情だ。

 佐川も冒頭とは違い、鍵盤に視線を落としてその速いテンポに喰らいつき、いや、自らがテンポを形成するかのようにどんどんドライブをかけながら駆け抜けていく。スピードが上がると、透の背中にまたぞくぞくとした感覚が駆け巡る。

 コーダに突入し、民謡調の音楽が流れる。ショパンらしい旋律。しかし、佐川はそのショパンの旋律を自分のものにし、展開していく。音楽は終結に向かって高揚していく。六本木の夜に聴いたときよりも血流が激しくなる。

 凄い。透の頭に浮かんだ言葉は、それだけだった。

 この音楽を言葉で表そうとすればするだけ嘘になっていく。

 言葉は仮のものであり、その本質を絶対に捕えることができないことは透にもわかっている。しかし、どうにかこの心に生じている感情を言葉で表したいという欲求に駆られ、そしてその不可能性を実感する。この音楽の中で何度も何度も感じた無力感。

 フェルマータの音が止んでも、透は音楽の中から帰ってくることができなかった。溺れたまま、ぶくぶくと泡を吹いて、水底へとゆっくり沈んでいく。

 透は横にあった客席に腰を降ろし、呆然と舞台を眺めていた。


 リハーサル終了後、ピアノには一切手を触れず、譜面台と椅子の位置だけ最終確認をする。佐川はすでに楽屋に戻り、ラユムンドと打ち合わせを行っている。透には非の打ちどころのない演奏に聴こえたが、二人の中ではまだ解決されていない問題があるのかもしれない。透はその問題には口出しはできない。とにかくメトロポリタン・フィルの楽団員たちがストレスなく本番を迎えるように手助けするのが自分の役目だ、と言い聞かせて椅子を整理する。

 コンサートマスターの椅子ではいつものように堀内が機嫌良さそうにヴァイオリンを弾いている。サン=サーンス、ヴァイオリンソナタ第一番の終結部。難曲を堀内は鼻歌でも歌うように軽やかに、なめらかに弾いてみせる。透はその旋律を聴きながら作業をする。仕事をしているすぐ隣に音楽がある。普段ならこの環境に対する感謝でいっぱいになりながら仕事をするが、今日はそういうわけにはいかない。様々な思いが犇めきながら、できるだけ淡々と仕事をしているように見せる。

「透くん、凄い顔をしながら仕事をしているね」

 ヴァイオリンを構えたまま、堀内は透に言う。丸眼鏡の上には切り揃えられた前髪がさらりと流れる。

「え、そんな変な顔してましたか」

「今日一日ずっと変な顔をしてるよ。なんだろう、百面相っていうか、そういうおもちゃみたい」

 堀内はくすくすと笑う。

「まぁ、透くんが考えてることはなんとなくわかるけどね」

 堀内はヴァイオリンを首から離し、腿の上に横たえる。

「演奏が凄すぎて、僕にはどうすることもできませんでした」

「どうすることもできませんでした、というのは?」

「僕の手を施さなくても、この音楽は完結しているし、完成しています。僕がピアノの場所を変えたからってこの音楽が良くなるわけでもない。僕がどうこうしても、この音楽を揺るがすことなんてできないんだな、とか」

 そこまで言って、透は好き勝手に言い過ぎたと反省する。こんなのただの愚痴ではないか。他でもない堀内に対してこんな弱音をこぼしてしまったことを透は恥じる。

「確かに素晴らしい演奏だったね。こんなにリハーサルで熱くなったのは久々かもしれない」

「それが二階席にいた僕にも伝わってきました。みんな顔が赤くなって、佐川さんのピアノを中心にしてどんどん音楽が膨れ上がっていく。こんな感覚初めてです」

「長くやってるとたまにあるね、こういうリハーサル」

 堀内は嬉しそうに言う。

「佐川くんは素晴らしいピアニストだよ。世界に無二のピアニストだ。彼のような個性をクラシック界は待っていたと言っても過言ではないと思う」

 堀内は言う。東京を代表するメトロポリタン・フィルのコンサートマスターをここまで言わしめるほどの佐川の揺るがない才能。透が途方もない時間を代償にして手に入れたかった才能。それが佐川にはある。

「でもね、透くん。君は素晴らしいステージマネージャーだよ」

 堀内は、言う。

 透はその言葉に、何も応えられなかった。

 堀内がそんなことを言うなんて、まったく思っていなかった。

「気に病むことはないよ。君は君の仕事をすればいい。そうしなければ、僕らは音楽を奏でられなくなるからね」

 堀内は立ち上がり、下手の舞台袖に向かって歩き始める。

「まぁ、そういう不器用なところも透くんの良い所だからね。大事にしなきゃいけないな」

 そう言い残し、堀内はヴァイオリンを高く掲げ、舞台を去った。

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