石黒は透が読んだインタビュー記事のときに着ていたものと同じシャツを身に纏い、客席の階段をゆっくり一段ずつ降りていく。透は少し離れた場所からその姿を眺めていた。身長はそれほど高くない。おそらく自分と同じくらいかそれ以下。やはり薄い髪の毛、顎には無精髭、視線はまっすぐ舞台に注がれている。しばらく立ったまま演奏を聴き、その後、客席の中央辺りで椅子に座る。

 ロマン派の楽曲をやる場合は、作曲家がリハーサルの際に客席に現れるということはもちろんあり得ない。クラシックのコンサートで行われる楽曲の多くはすでに作曲家が亡くなっているため、作曲家が客席で自分の音楽に耳を傾けるという状況は透にとってめずらしいことだった。

 石黒は今何を思っているのだろうか、と透は思う。

「石黒の芸術自体に興味があるってよりは、石黒の行動原理の解明に興味が向いてる」という桃香の言葉が思い起こされる。石黒が自分の音楽に耳を傾ける行動原理とは一体なんなのだろうか。

 自分で創った音楽がプロのオーケストラに演奏されることに対する喜びでいっぱいかもしれない。自分が想像していた音楽の響きと実際に聴く響きがあまりにもかけ離れていて悲壮感でいっぱいになっているかもしれない。はたまた、自分が創る音楽が抱える課題や欠点を探して改善策を見出そうとしているのかもしれない。

 透はいてもたってもいられず、座席に座っている石黒に向かって歩み始めた。

 自分が石黒と何を話したいのかもわからない。そもそも石黒が自分と会話をしてくれるかどうかもわからない。しかし、透は石黒に声をかけないわけにはいかなかった。

 客席の中央部。石黒はじっと舞台を見据えたまま座っている。舞台上では自分が創りあげた音楽が演奏されている。周りを取り囲むのは絢爛な細工が施されたコンサートホール。その中心に間違いなく石黒定好はいた。

「初めまして、石黒さん。メトロポリタン・フィルでステージマネージャーを勤めています、八重樫透と申します」

 透が口を開いても、石黒は微動だにせず、ただ舞台に視線を注いでいる。透の言葉が耳に入っていないように、透の存在などないように石黒は動かない。

「楽団員と共に試行錯誤してこのようなセッティングに辿り着きました。どこかお気に召さない部分がありましたらなんなりと申してください」

 透は必死に笑顔を作って言う。

「いろいろ世話をかけるね」

 石黒は口を開いた。

 透が想像した声によく似た声。淡々とした口調、静かで仄低い声。横溝の重厚感溢れる声とは違い、地を這うような声ではない。しかし聞いている人の奥まで響いてくる声。

「演奏者というよりは、私の曲はステージマネージャー泣かせなんだろうな。曲の合間にステージの椅子の方向を変えたり、鐘を客席に設置したりする段取りを考えなければならないのは大変だろう」

 石黒の視線は依然として舞台に注がれたままだ。静かに、抑揚のない喋り方で滔々と言葉を並べる。

「それが仕事ですので」

 透はできるだけ平静を装って応える。石黒は頷きもせずにじっと座っている。

 透にはまだ石黒の意識の上に自分が存在しているようには思えなかった。石黒の頭の中には音楽しか広がってはいないのではないか。

「八重樫くんは、この曲をどう思う」

 透が考え込んでいると、石黒の方から透に言葉を投げかけた。透の頭はフル回転をして言葉を捜索する。さっき一人で音楽を聴いていたときにはいろんな印象が頭の中に生じて、その浮かんだ印象を自分の貧困なボキャブラリの中から近い言葉を探して具現化できていたが、石黒を目の前にすると頭に浮かんでいた言葉がすべて消え去ってしまう。

 適当な言葉を用意しなければ、と思うほど言葉は透の掌をするするとすり抜けていく。

「僕の名前と、タイトルが似てるんです」

 思ってもみない言葉が飛び出した。音楽の内容の話ではなく、まさかの題名と名前の共通点を述べるとは。そんなことしか言えない自分を自分で呆れる。

「八重樫と九重か。確かに似ているな」

 石黒は初めて顔を僅かに綻ばせた。

「まるで伊勢大輔の歌のようだ」

「『いにしへ』の歌ですね」

 石黒が言葉をつないでくれたことに透は安堵する。

「そう。伊勢が藤原道長からの強大なプレッシャーの中で詠んだ歌。大変機知に富んでいて、好きな歌だ」

「僕もすごく好きです。響きが可憐で、とても音楽的だと思っています」

「音楽的ね。確かに」

 バルセロナという異国の地のホールの中に「いにしへ」の歌が浮遊しているような感覚に陥る。舞台からはちょうど雅楽の和音が響き、浮遊している歌と響きが絡み合う。目を閉じれば宮中に添えられた八重桜の匂いが立ち昇るようだった。

「音楽としてもとても良い曲だと思います。どの楽器も効果的に響いてますし、一方向からの音楽だけではなくて、ホール全体から音楽が聴こえてくるような感覚があります。聴いている人が舞台の上の景色から離れて、ホールの中に充満している音楽に全身を浸すことができる響きがこの曲にはあると思います」

 少し余計な力が抜けたせいか、透の口は軽くなり、言葉がすらすらと口から流れ出てくる。その言葉を石黒は顔を僅かに綻ばせながら聞いていた。

「光栄だ。ありがとう」

 石黒はぽつりとそう言った。

「こういった前衛的な音楽は斜陽音楽だと私は思っているんだ」

 不協和音がホール内に響く。

「古くはストラヴィンスキー、シェーンベルクから始まった現代音楽、前衛音楽の系譜はここにきて袋小路に立たされているように思える。オーケストラ編成の映画音楽や劇伴の音楽は徐々にポップス化し、後世に遺されることよりも、いかにその場で消費しやすい音楽になるか、ということに重きを置いて進化を遂げてきた。私はそれを悪であるとは思わない。むしろ、それは立派な善だ。解釈しやすく、耳心地が良い音楽こそが王道であると私は思う」

 石黒の声が響く中で「九重」は進んで行く。流麗でロマンチックな音楽が流れているかと思えば、それが不協和音や打楽器によって断絶し、掻き消され、音楽としての流れを乱していく。

「私がつくるような前衛音楽は、王道を引き立てるためのスパイスにすぎない。王道が勝者の音楽だとすれば、私の音楽は敗者の音楽だ。人々は私がつくる歪んだ音楽を聴くことで舌を刺激させ、王道の音楽を聴いて王道の甘さを際立たせるんだ。言ってみれば私の音楽はスイカにかける塩みたいなものだよ。それが現代で求められている前衛の姿だ」

 石黒の表情は変わらない。わずかに浮かんだ笑みの中に厳しさが覗く。自らの音楽を冷静に分析し、音楽史の中に位置付ける。その言葉は透が思い描いていたような、自信に満ち溢れたような言葉とは違っていた。

「ただ、私は私の頭の中に響いた音楽を具現化することしかできない。他の人間がどんな音楽を作ろうが演奏しようが私には一切関係ない。関係させられないと言った方が正確かな。私の音楽がただの添加物であっても、私にとっては唯一無二の音楽なんだ」

 透はその石黒の言葉が旋律のように聴こえた。自分にとっての唯一無二の音楽。その言葉を透は自分の中で反芻する。

 自分だけの音楽を生み出せることができたら、どれだけの幸福を味わうことができるのだろうか。

 透は、その音楽を見つけることに挫折をした。

 自分が信じてきたものを、すべて台無しにしてしまった。

 ピアノを弾くことをやめ、自らの指で音楽を創り出すことをやめてしまった。

 しかし、心の一番底には、まだ自分の理想の音楽に対する欲望が沈殿している。

 まるでパンドラの匣に残っていた「希望」のように。

 いくらピアノを弾くことをやめたとしても、その沈殿した「希望」が霧散することはない。

 そのことを、石黒の言葉を聴いて、透は深く自覚する。

「すまないね、つまらない話をして。老いの証拠だな。どうしても若い人間を見ると自分の話をしたくなる」

 石黒はそう言って微笑む。

「いえ、とても興味深いです」

 透の声はわずかに震えていた。

「あの、石黒さん」

 透はおそるおそる口を開く。自分が追い求める音楽を実現させるために。

「客席に配置する鐘の位置なのですが、今は一階席に置いてあります。ただこのホールの構造上、二階席に置く方が演奏効果が見込めると僕は思っています。いかがでしょうか」

 さっきまで綻んでいた石黒の表情が突然強張る。その表情の変化に、透の心はきゅっと小さくなる。石黒はそのまま目を閉じ、顔を上げて天井の方に向ける。すると、ちょうど客席の鐘が鳴った。舞台を向いている透の背後から音は聴こえ、ホールの中に響いて、そして消えていく。まるでやまびこのような鐘の音。十分演奏効果がある。ただ、やはり二階席のせり出しに音の響きが阻害されているように聴こえる。もっと、音を解放したい。響きを遠くへ届かせたい。透の心にはそんな言葉が浮かんでいた。

 しばらく目を閉じていた石黒が再び目を開け、横にいた透の方に顔を向ける。

「その通りだ。この鐘の音は、私の頭の中に響いていた音ではない」

 さっき縮んだ透の心が、一気に膨張する。

「迂闊だったな。ホールによって鐘の響きがこんなにも違うとは思わなかった。いつもいつも同じホールばかりで演奏を聴いていると頭が麻痺してしまう。申し訳ない」

 石黒は深いため息をついた。

「では、そのように横溝さんに言ってみたいと思います」

「そうしてくれ。他に何か気づくことはないか?」

 石黒の瞳に輝きが宿る。自分の音楽がさらに良くなることへの期待感の表れだろうか、少年のような輝きだと透には思えた。

「八重樫くん、音楽の前に全ての人間は平等であり、それ以上に無力だ」

 瞳を輝かせたまま、石黒は言う。

「音楽の本来を見つけ、具現化するためならどんな手段を使っても構わないと私は思う。自分が追い求めている音楽があるのに、その実現に尻込みをしているような人間には音楽家は務まらない」

 石黒の言葉が透の体にすーっと沁み込んでいく。

 自分の中で、何かが赦されていくような気がする。

「八重樫くん、君も音楽家の一人だ。自信を持ちなさい」

 透の心を見透かしたように、石黒は言う。

 透は目をわずかに濡らしながら、石黒に対して小さく頭を下げた。

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