交響曲第九番「九重」はバルセロナの聴衆に熱狂をもって迎えられた。

 曲の最終盤で、二階席に設置された二つの鐘が響き渡り、その響きに引きずられるようにして舞台両袖の打楽器類の熱も高まり、トゥッティが盛り上がっていく。そこに弦楽器の流麗な音色、そしてそれと対峙するかのように金管楽器の荒々しい響きが加わる。音楽は高波のように一気にホールに押し寄せ、聴衆を飲み込んでいく。そして高波が去り、ホールにはまた凪いだ海原と澄んだ空が戻ってくる。弦、管楽器の音は徐々に消えていき、最後には規則的に鳴り響く鐘の音だけがホールに残る。低く響いた音はいつまでもホール内に漂い、聴くものを音楽の海から離そうとしない。

 その音が完全に消えても、横溝は指揮棒をなかなか降ろさなかった。十秒、二十秒、三十秒と静寂がホールの中に充満する。まるでその静寂も音楽のように、いや、静寂こそが音楽なのだと舞台袖にいた透は思う。横溝は静寂をも掌握している。この曲の魅力を最大限に引き出し、そして音楽が止んでもそこに音楽を継続させる。横溝の指揮者としての手腕が輝いていた。

 一分ほどの静寂ののち、横溝はゆっくりと指揮棒を下ろした。すると、客席から万雷の拍手が鳴り、それまでの静寂を一瞬のうちに掻き消した。

 横溝が一度舞台袖に戻ってくる。そして舞台袖で透の横で「九重」を聴いていた石黒と堅い握手を交わす。石黒の表情には恍惚感が現れ、柔らかい笑顔が浮かんでいた。

 そして横溝は石黒を引き連れてまた舞台に戻る。石黒の姿を見た聴衆はさらに大きく手を叩く。あちこちから歓声が上がり、石黒は客席をしばらく眺めたあと、頭を下げた。楽団員たちも足を踏み鳴らして石黒を讃える。石黒はオーケストラの方にも向いて大きく掌を打った。そして横溝と共に舞台袖に戻ってくる。

 透は腕時計を見遣る。時間としてはここでカーテンコールを打ち切ってアンコールに流れ込むのがベストであると透は判断する。しかし、ステージマネージャーとしての理性よりも、極限の音楽を聴いたことによる興奮の方がはるかに上回っていた。

「横溝さん、もう一度舞台に出ましょう」

 透は戻って来た横溝に言う。

「時間は大丈夫なのか?」

「大丈夫です。まだ時間はあります」

 透は嘘をつきながらも、横溝にはその嘘が見抜かれていることもわかっていた。だが、横溝は小さく頷いて「さぁ石黒さん、もう一度行きましょう」と言って大きな掌で石黒の背中を促した。

 また割れんばかりの拍手が起こる。舞台袖にもその拍手の音は届き、透の耳にもしっかりと伝わる。

 透が舞台袖の中を見回すと、バルセロナのホール職員たちもみな笑顔で拍手をし、石黒を讃えていた。音楽によって言葉の通じない人々が同じ表情をして、同じように手を打って感動を外に表す。こんなに素晴らしいことがあるだろうか、と透は思う。

 思わず透の表情にも笑みがこぼれる。このコンサートができてよかった、この演奏に直に触れることができてよかった、一緒に創ることができてよかった、妥協せずに試行錯誤をしてよかった。透の頭にはそんな言葉が過る。この演奏会は、そして石黒との邂逅は自分にとって大きな意味を持ったことを透は確信し、透も舞台袖で拍手をする。


 バルセロナのひんやりとした夜風が透の体を撫でる。

 十月のバルセロナの夜。まだまだ街は活気付き、街道の横に立ち並ぶバルからは陽気な笑い声が聴こえる。メトロポリタン・フィルの楽団員も打ち上げを行い、今は二次会に突入していた。透は先に抜け出してホテルへと戻る。出発前の楽器の梱包の疲れがまだ抜けておらず、石を背負ったように体が重い。

 北に向かって坂を上っていくと、突如巨大な建築物が姿を表す。

 バルセロナのシンボル、サグラダ・ファミリア。

 透は翌日の自由時間のときに見学しようと思っていたので、今日は見るつもりはなかったが、不意に現れたその荘厳な教会を目にして足が進まなくなった。圧倒的な質量、圧倒的な色彩、圧倒的な造形。紛れもなく「芸術」と呼ばざるを得なかった。

 透はゆっくりと一歩一歩サグラダ・ファミリアに歩み寄る。

 その巨大な造形物を見ていると、自分の存在の無力感を否応なく実感させられる。

「音楽の前には人は無力だ」という石黒の言葉が頭に蘇る。

 人は芸術の前にはやはり無力なのかもしれない。

 音楽も、建築も、すでにその形はこの世に存在して、それを人間が掘り起こしているにすぎないのかもしれない。ただ、埋まっている芸術を掘り起こすことができるのは限られた人間だけだ。ガウディも石黒も、その限られた人間の一人なのだろう、と透は思う。

 いつかは、自分も。

 いつか自分も、自分だけの音楽を創り出す。

 透は荘厳な寺院をまっすぐ見つめながら、そう決意する。

 直後、ポケットの中の携帯電話が震える。取り出して画面を見ると桃香の名前が表示されていた。

『もしもし、透? どこにいるのかなー?』

 いつもよりも声が高い。明らかにアルコールが入っていた。

「ホテルに帰る途中だけど」

『なんだよ野暮だな君は。バルセロナの夜をもう終わらせる気? そんなこと私が許さないぞ』

 透はサグラダ・ファミリアを見ながら桃香の言葉に耳を傾ける。

『あんな素晴らしい音楽をやっておいて、帰るとは何事だね。ステージマネージャーくんの努力も取材しなくちゃならんしねぇ。はやくこっちにおいで。呑み明かそうじゃないか』

「はいはい」

 透は観念して桃香から店の場所を聞き、今来た坂を下り始める。

『それにねぇ、今回はスペシャルゲストまでいるのだよ』

「ゲスト?」

『石黒先生だよ。石黒定好先生に来ていただいておりますー』

「はぁ? なんでそんなところに石黒さんがいるんだよ」

『今いるバルに入ったら偶然石黒先生も一人でワイン飲んでてさー。一緒に飲みましょーってことになって、もう仲良くなっちゃったよ。石黒先生も透のことを非常に買ってくれているよ。こんな世界に名前を轟かせる大先生に気に入られるなんて、どんなことをしたんだね、八重樫透。その辺の話も聞かせてもらわにゃなぁ』

 そう言って桃香は笑う。

「わかったよ。すぐに行くから待ってて」

 透は電話を切って急ぎ足で坂を下りる。

 まだ、この夜は僕を離してはくれないな、と透は顔に笑みを浮かべた。


 結局、桃香と石黒とともに飲み明かしてからホテルに朝帰りし、倒れこむようにベッドで眠り込んだ。

 透が昼まで熟睡している間に、クラシック界を揺るがす大ニュースが世界中に流れた。

 佐川公彦が、ショパン国際ピアノコンクールで第一位を受賞したのである。


《三章 了》

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