七
透には、佐川が何を言っているのかまったく理解できなかった。
言葉を辞書通りの定義で理解することはできる。「僕の指をすべてへし折ってくれませんか?」という文章を品詞分解することもできる。しかし、今ここで佐川がなぜそんなことを言うのか、まったく理解できなかった。
「佐川さん?」
透はそうやって佐川の名前を呼ぶことしかできなかった。どういう意図でこんなことを言ったのかがわからない限り、何も言うことができない。
「どう、なさいましたか? 何かご不満な店がありますか?」
佐川は依然として焦点の定まらない視線を部屋のあちこちに向けている。ぐらぐらと瞳が揺らいで、そのままぐるぐる回りそうな勢いで動きまわっている。
「いや、だから、指を折って欲しいんですよ。僕の指を」
「何を、言ってるんですか。そんなことしたら、ピアノが弾けなくなりますよ」
透は必死に笑顔を浮かべようと努めた。しかしどれだけ頑張っても、ひきつったような笑顔にしかなっていないことは、透にも自覚できた。
音楽家は子どもらしい一面があるということはさっきラユムンドから学んだ。佐川にもそんな子どものような顔を持っていて、こうやって戯れ言を言って自分をからかっているんだ、と透はなんとか辻褄を合せようとする。
これはふざけているだけだ。冗談にすぎないんだ。だから軽く笑ってやり過ごせばいいんだ。透は自分に言い聞かせる。
「そうですよ。ピアノが弾けなくなるようにしてほしいんですよ。指の骨をばらばらにすれば今日はピアノを弾かなくて済むでしょう? より細かく砕いてくれれば骨だって完全に元の形に戻ることもなくなります。そうすれば、今日だけではなくて、一生ピアノが弾けない手を手に入れることができる。手を手に入れるっておかしいですね。猟奇殺人の犯人が言いそうなことだ。死体から手を切り離して、その手を手に入れる。でも、今の僕の手は自分の手じゃない。僕はピアノを弾きたくないのに、僕の手はピアノを弾かざるを得ない。意志に反して動かない手なんて自分の手ではない。だったら、本当の手を手に入れないと。だから、僕の指を砕いてください。折ってください」
佐川はほとんど息をつかずに一気に言葉を吐きだした。昨日舞台の上にいた佐川の喋り方とは全く違っている。まるで他人の霊が佐川に取り憑き、体の口を借りて話しているように、佐川から受ける印象が違って感じる。
「何を言っているんですか。だめですよ、佐川さん。もう本番まで三十分もないんですよ。冗談もいい加減にしてください」
「冗談なんかじゃないですよ。僕はもうピアノなんて弾きたくないんです。見たくもないし、そばに置いてほしくもない。僕の指を折るのが不可能であれば、舞台の上に置いてあるピアノを燃やしてください。油をかけて、一思いに火にかけてください。よく燃えるんでしょうねぇ、全身が木で出来ているんだから。そうした方がいい。世界中のピアノを燃やしてやればいいんですよ。そうすれば僕のように苦しむ人間はこれ以上現れない。あんな悪魔のように黒く光っている箱なんて、この世に存在する必要なんてないんです」
「佐川さん!」
透は声を荒げる。止まることなく口から垂れ流されていた言葉はぴたりと止んで、楽屋中には弦楽アダージョだけが響く。極限までに洗練された弦楽器。聴く者の心から悲しみを取り出させ、増幅させる深い旋律。単に弦と弓が擦れているという物理的な摩擦音というだけなのに、ただの空気の振動が鼓膜を震わせているというだけなのに、そんな物理的現象がどうしてこんなにも人の心を打つのか。その物悲しい旋律が、佐川の笑顔の不気味さを際立たせる。
「あなたほどのピアニストが、ピアノを燃やすなんてことを言ってはいけません。あなたは世界のピアニストの憧れなんです」
自分も、その中の一人であることを、透は心の中で認める。
「なぜ僕なんかに憧れるんですか。僕のピアノなんてどこも優れていない。一切美しくもない。かといってグロテスクですらもない。洗練されてもなくて、無骨でもない。物憂げでもなく、楽しげでもなく、何の感情も湧きあがってこない。無なんですよ。僕のピアノは無なんです。このピアノを聴いたところで、聴いている人間は何も得ない。何も失わない。毒にも薬にもならないとはまさにこのことで、僕のピアノが存在してもしなくても、この世界は何も変わりはしない」
「そんなことあるわけないじゃないですか。佐川さんのピアノは無なんかじゃありません。無のピアノでショパンコンクールが取れるわけがないじゃないですか。佐川さんのピアノは、世界が認めたピアノなんです」
「そんなのたかだか数十人の音楽家が消去法で決めただけの賞じゃないですか。一番良いピアノなんかじゃない。一番悪くないピアノです。減点要素が少なくて、当たり障りのなくて、聴く者を不快にもさせず、恍惚させることもなく、静かな凪のようなピアノ。それが評価されただけにすぎない。僕のピアノが無価値だからこそあの賞を取れたんですよ。ショパンコンクールは、僕のピアノの無価値さを証明しました」
「絶対にそんなことありません。ショパンコンクールを取ることができる人間なんて、世界に数人しかいないんですよ。五年に一度しか開催されないうえに、該当者なしの年だってある。そんな中で、ただ一人の第一位に選ばれているんですよ。それがどれだけ素晴らしいことか、あなただってわかっているはずですよ」
「芸術と芸術を比べて優劣をつけることなんてできないんです。できるのは、機械的に正しいか正しくないかを比べることしかできないんです。僕は楽譜通りに忠実に演奏した、それだけです。良さも悪さも減ったくれもない。鍵盤を押しているか押していないか、音が出ているか出ていないかのデジタルな音でしかない。そんな二進法的な音の集合体を音楽と呼べるわけがないでしょう」
透の言葉は、佐川に届かない。どれだけ言っても、佐川の心に弾き飛ばされてしまう。弦楽アダージョと休憩が終わるまで残り二十分。いつも頼っていた堀内も、今は舞台上でアダージョの流れを牽引している。
今、ここで佐川を再起させられるのは、ステージマネージャーである自分しか、そして佐川のピアノの素晴らしさを誰よりも理解している自分しかいない。透は腹を括る。
「聴衆はね、今は僕にいい顔をしていますけど、それもいつまで続くかわからない。僕の演奏を期待して聴きにきて、僕がそのときにミスをする。そうすれば聴衆は掌を返すように石を投げてくるんです。そういう生き物なんですよ、聴衆っていうのは。一人が僕のミスを見つけて批判をすれば、その批判が感染症のように爆発的に広がり、革命が起こる。僕の音楽を血祭りにあげて、新しい才能の出現の肥やしにする。僕への期待っていうのは、いつか起こる革命の起爆剤でしかないんですよ。でも、聴衆は僕にピアノを弾かせ続ける。僕がピアノを弾くと、また聴衆の期待は高まる。負のスパイラルなんですよ。誰も止めることはできない。僕にも止めることができない」
言いながら、佐川の手ががたがたと震え始めた。リハーサルで美しいショパンを奏でたあの手とは確かに違う手になっていた。みすぼらしく震え、威厳もない、ただの白い手。
「現代の聴衆のリアクションってどんどん事後的になってるんです。コンサートで聴いたときは拍手をしておけば音楽家は満足すると思っている。そして家に帰ってからあることないこと、的外れな批判、自己満足の論評をネット上にアップして、僕をこき下ろす。ストラヴィンスキーの時代とは全く違うんです。聴衆の反応が即時的じゃなくて、事後的になっていく。誰しもが評論家を気取って、誰かを批判して自分を高めていく時代なんです。僕らみたいに、何かを創作して生計を立てている人間は、その評論家気取りの人間の生贄でしかない。僕らは論評され、評価を下げられるために何かを創っているんです。表現者は表現をする時点で負けているんです。表現物を評価する方が絶対的に有利なんです。圧倒的な後だしじゃんけんです。僕がパーを出せば、そのパーに対してどのようにチョキを出そうかとじっくりじっくり彼らは考えるんです。そして、ごてごてと無駄な言葉で繕ったチョキを出して勝ち誇った顔になる。そして、僕はただ負ける。そんな後だしじゃんけんは、もうしたくないんですよ。あらゆる手段で負けを被ることは、したくないんです。だから、指を、この指をへし折ってください。指がなくなれば、僕はじゃんけんをせずに済むんです」
佐川は震える手を差しだし、透に向けて掲げる。心から嘆願している表情を浮かべ、透を見る。弦楽アダージョが、その盛り上がりを増す。音が厚くなればなるほど、悲しみは増幅される。佐川の見開かれた目にの奥に、透は悲しみを見た。弦楽アダージョによって引きずり出された黒い、暗い悲しみがそこにあった。
「今を思えば、僕は『あの』コンクールで勝ったことを恨んでいるんです。『あの』コンクールで優勝をした自分を。ピアニストとしてのキャリアをスタートさせてしまった『あの』コンクールが、今でも憎い」
透は佐川の言葉を聴いて、心臓が止まりそうになった。
「あの」コンクール。
佐川が、初めて優勝したコンクール。
十和田湖国際ピアノコンクール。
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