「『あの』コンクールに勝っていなければ、僕はこんなところでピアノを弾かずに済んだんですよ。僕があのときに酷い演奏をすれば、僕はショパンコンクールを取らずに済んだ。ここまで事が大きくなる前に、ピアノを失うことができたんです。あそこで優勝してしまったから、僕はピアノを捨てられずにいる。いや、ピアノが僕を捨ててくれない。すべては、あれが根源なんです」

 あのとき勝っていなければ、僕はこんなところでピアノを弾かずに済んだ。

 あのとき勝っていれば、僕はこんなところでステージマネージャーをやらずに済んだ。

 透の頭に、そんな言葉が現れる。

 あのとき勝ったから、ピアニストして演奏を続けている。

 あのとき負けてから、ステージマネージャーとして働いている。

「あのとき、僕を負かさなかったピアニストたちが憎い。最年少の僕をどうして負かしてくれなかったんでしょうか。彼らは一体それまで何をやっていたのか、本当にわからない。努力をすれば、僕に勝つことは簡単なはずだったのに。どうして、僕に勝てなかったんでしょうか」

 佐川は透が同じコンクールで第二位を受賞したことを知っているのか、知らないのかということを透にはわからなかった。表情からしておそらく知らないのだろうが、知っているかもしれない。だとしたら、長年溜まりに溜まった呪詛を今ここで吐き出していることになる。しかし、知っているか知っていないかは透にとってはそこまで重要なことではなかった。

 そんなことよりも、それまでの自分のピアノを全否定されたことが許せなかった。

 十和田湖のピアノは自分にとって完璧な演奏だった。二十年近く積み重ねピアニストとしてのキャリアの集大成であることは間違いなかった。すべてを出し切り、未練や後悔など一切抱えない演奏だった。

 しかし、佐川のピアノには遠く及ばなかった。自分のすべてを出し切っても、佐川の足元にも及ばなかった。

「十和田湖で優勝したときは確かにうれしかった。誰かに認めてもらえたような気がしたから。観客の拍手が賛辞に聴こえて、もっとピアノを弾きたくなった。いつまでも自分のピアノを聴いてもらいたかった。そして良い評価をしてほしかった。スポットライトを浴び続けたかった。でも、今の苦しみを知っていれば、あのとき喜びなんて感じることはなかった」

 佐川は震える手を胸の前で抱える。しかし、その震えは一向に止まる気配はない。

「産みの苦しみと言う言葉はあるけど、産みの喜びと言う言葉はない。産むことは喜びではないんです。産んだものが育まれ、成長していく様を見て初めて喜びを感じることができる。でも、僕が産んだものは多くの人間に罵倒され、切り刻まれ、最後には捨てられる。そんなものに喜びを感じることなんてできない。それでいて、産みの苦しみはしっかりと味わう。僕のピアニストとしての人生に喜びなんてものはなかった。あの十和田湖の瞬間だけです。それ以降、喜びを感じることなんて一切なかった。感じるのは痛みと苦しみと悲しみだけです」

 佐川の苦しみは透にとっても理解できる。

 ピアノを弾くことは苦しい。何十時間も練習をして、本番で弾く時間は長くても一時間弱。それまでの長い人生で培ってきたものをとてつもなく短い時間に凝縮しなければならない。その重圧は計り知れないほど大きい。

 佐川ほどのピアニストになり、世界で活躍するようになれば、その重圧はさらに大きなものになるだろう。そこまで行くと、透の想像が及ぶ領域ではなくなる。

「十和田湖から先、僕の指を折ってくれるピアニストには出会えなかった。誰もが僕のピアノに屈し、僕のピアノに跪きました。こんな無価値なピアノに対して敗北を宣言するんです。そして僕を勝手に羨み、勝手に崇拝する。僕は祭り上げられながらピアノを演奏し、必要じゃなくなったらぽいと捨てる。そのときは必ず訪れる。そうなる前に、僕を葬ってください。早く、僕から、ピアノを奪ってください。すべてを、奪ってください」

「いい加減にしろ!」

 透は叫んだ。

 アダージョが最高潮を迎える。天にも届くような高音のロングトーンが、楽屋を覆う。

「何が勝手に羨んで勝手に崇拝した、だ。あなたに負けたピアニストの心情をあなたがどうして決めつけることができるんですか。あなたに負けたピアニストが、舞台袖でどんな気持ちであなたのピアノを聴いていたか知っているんですか? 彼らはあなたを羨んでなんかいないし崇拝もしていない。あなたのピアノと一緒に喜んでいるんですよ。こんなピアノと出会えてよかった。こんなピアノを弾くことができる人間に出会えてよかったって、心の底から思うんです。だからこそ、彼らはあなたのことを心の底から憎むんです。そのピアニストたちの心情をあなたが勝手に捏造することは、僕が許さない」

 透は佐川に詰め寄る。そして、佐川の胸の中で震えていた手を掴む。

「この手は、人を喜びに誘うことができる手なんです。世界中のどこを探しても、これだけの人間を喜びの世界に引きずり込むことが出来る手は二つとありません。あなたのピアノを聴いた人々の喜びを踏みにじることも、僕は絶対に許さない。観客を愚弄することは絶対に許さない。あなたのピアノは、観客がいて初めて成立するんです。ストラヴィンスキーの『春の祭典』だって、聴衆の怒号と野次があったからこそ成立したんです。聴くものがいなければ、音楽はこの世に存在しない。そして、そこで生まれた喜びは、万雷の拍手は、絶対に本物なんです。あなたは、そのことがまったくわかっていない」

 十和田湖でも、リハーサルでも、透の心は佐川のピアノによって鷲掴みにされたままでいた。そんな自分の喜びも、否定されることは許したくなかった。

「佐川さん、人は、自分にしかできないことを常に欲しているんです。この世に存在していい理由を探してるんです。そんなもの、本当は存在しないのに、生きている理由なんて本当はないのに、それを人間は欲しがるんですよ。あなたはそれを持っている。この手が、あなたが生きる理由なんですよ。あなたは、あなたが負かしてきたピアニストのためにも、そして聴いてくれる観客のためにも、そして、自分のためにも、ピアノを弾き続けるべきです。そうやって、自分ができることをこつこつとやっていくことしか、人にはできないんですよ」

 コンサートの打ち合わせを行い、舞台をセッティングして、椅子を並べ、譜面台を調節し、コンサートのタイムキーパーをやり、運営の責任者として働く。それしか、今の自分にはできない。これが、自分にしかできないことかどうかはわからない。でも、自分ができることをやっていくしかない。佐川に対する言葉は、いつしか自分に向けられているようになっていた。

「苦しくても、ですか」

「どれだけ苦しくても、です。苦しくても、悲しくても、どうしてもやりたくなくても、自分ができることを、一つ一つやっていくしかないんです。佐川さんだって、僕だって、誰かの『自分ができること』によって支えられて、生きているんです。この世界は全人類の『自分ができること』で動き続けているんです。だから、自分ができることを誰かが辞めるわけにはいかないんです」

「その先に、ゴールはあるんですか」

「ゴールなんてありません。人間は死んでもゴールすることはできません。人は人の記憶の中で生き続けて、生きている人を勇気付けたり、叱咤激励したりします。それも自分ができることの一つだと僕は思います」

 佐川の手の震えがだんだんと収まってくる。それと同期するかのように、弦楽アダージョも終わりに向かって収束していく。

「あなたのピアノは、唯一無二です」

 透は、石黒の言葉を重ねる。

「あなたのピアノで喜びを得る人は、必ずいる」

 自分のように、と透は思う。

「あなたのピアノは決して無価値なんかじゃない」

 あなたのピアノの素晴らしさは、自分が一番わかっている、と透は思う。

「だから、弾いてください」

 あなたのピアノを。

「佐川さんには、僕がついています。僕はいつだって、佐川さんの味方です。それが、ステージマネージャーの役目ですから」

 透は、微笑みを以て、佐川を見る。

 佐川の目から、一筋涙が流れた。

 透の言葉が、自身の体に沁み込んでいく。

 そうだ、それでいいんだ。

 音楽家はいつでも孤独に苦しむ生き物だ。それは透もよくわかる。

 だから、その孤独を和らげなければならない。

 それができるのは、舞台袖にいつもいるステージマネージャーしかいない。

 音楽家を救うことができるのは、自分の職業しかない。

 評価対象として音楽家と接するのではなく、ただの一人の人間として接することができる唯一の職業。音楽家の唯一無二の味方。

 それが、ステージマネージャーなんだ。

 手の代りに佐川の唇が僅かに震える。

「ありがとう」

 佐川は、小さな声で、そう言った。



 十二月の寒気が透の体を襲う。厚手のコートを着ているはずだが、その冷たさはコートを貫いて透の肌を直接刺してくるようだった。

 透は東横線の最寄駅から、自宅までの道を歩きながら、今日の演奏会を思い返す。

 舞台袖にいた佐川の凛々しい表情。リハーサル以上の素晴らしい演奏。そして観客の歓声。それまで透が聴いてきた拍手の中で、最も大きい拍手といっても過言ではなかった。

 一時はどうなるかと思ったが、どうにか乗り切ることができて透は今さらながらほっと息をついた。セッティング、コンサートの運営だけではなく、演奏者を無事に舞台まで連れて行くこともステージマネージャーの重要な仕事であるということを、透は身を以て味わった。

 佐川にぶつけた言葉の数々を思い出しながら、あの言葉は自分に向けられた言葉だったのだな、と改めて実感する。自分ができることを一つ一つやっていくしかない。至極当たり前なことであり、意識的に心に浮かばせるようなキーワードではないが、人生の根幹を成していることは間違いない。

 そういえば、今日のコンサートも桃香は聴きに来ると言っていたことを透は思い出す。どんな評価が下されるだろうか。マーラーの演奏会のときは最高の評価である赤ワインが食卓には置かれていた。それっきり、赤ワインは残念ながら味わっていない。しかし、今回のコンサートはかなり出来がよかったと自負している。これならば久しぶりの赤ワインを味わうことができるかもしれない。

 期待に胸を高鳴らせながらアパートの階段を昇り、扉を開ける。

「ただいま」

 リビングはやはり電気がついている。桃香が透の帰りを待っていた証だ。

 透がリビングへ繋がる扉を開けると、テーブルの前に桃香が座っていた。

 しかし、すぐに異変に気がつく。

 テーブルの上にアルコール類が用意されていない。赤ワインはおろか、缶ビールすらない。

 これはどういうことか、と透は思う。こんなケースは今まで見たことがない。これは何を意味しているのだろうか。「缶ビールすらない」という最低の評価なのだろうか。透の掌は一気にじんわりと汗で濡れる。

「透」

「はい」

「座りなさい」

「はい」

 透はコートも脱がずに促されるがまま桃香の隣にぺたんと座った。

「今日のコンサート、聴かせていただきました」

「はい。ありがとうございます」

「正直な感想言っていい?」

「はい」

 桃香は顔を透に向けて、じっと透の目を見た。

「言うことなし」

 桃香はそう言って、自分の唇を透の唇に押し付けた。

 桃香の甘い香りが鼻腔を刺激する。

 こういうパターンだったのか、と透は初めての「ダメだし無し」の快挙を心の中で祝いながら、目を閉じて桃香の唇の感触をじっくりと味わった。

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