ピアノの横に立った横溝に倣って透も舞台に向かって立ち、一礼をする。

 客席からはほのかな拍手が聴こえる。その拍手をしっかりと噛みしめながら、燕尾服の尾を丁寧に捌き、透はピアノの前に座る。

 透はもう一度オーケストラを見る。

 ピアノの横に立ってメトロポリタン・フィルのオーケストラを見渡すことはあっても、ピアノの椅子に座って眺めるということは今まで一度もなかった。たった一度だけ、十和田湖の地でこの席でオーケストラを眺めたことがあるが、透の目にはその当時の風景とはまったく違う景色に写った。

楽団員たちの視線はピアノの前に座っている透に注がれる。楽団員の表情は真剣そのものだった。これから始まる戦いに挑むべく、集中力を高めている。そして、せめぎあう相手である透をじっと見据えている。

透は最後にコンサートマスターの席に座っている堀内を一瞥する。堀内は小さく頷く。言葉は、もう要らなかった。

 横溝が指揮棒を振り下ろす。

 途端に響き渡る重低音。コントラバス、ヴィオラ、ホルンの重低音が響き渡る。重く響くロングトーンとぶつかり合うように第一ヴァイオリン、チェロの旋律が出現する。そのせめぎあいをうねるようなティンパニのロールが煽り立てる。荘厳で、偉大な響き。音と音が弾けあい、混ざり合い、響きを形成する。その響きはじっと出番を待つ透の体の中心までずしんと届く。心臓の鼓動とオーケストラの響きが共鳴し、体が破裂しそうなくらいに音が増幅される。耳で音楽を聴くというよりも、耳の奥で音楽が生まれ、脳を通さずに直接体内に駆け巡っていくような感覚。頭のてっぺんから指の先、足の先までが音によってびりびりと震えている。

 強いぞ、このオーケストラは。

 音楽の向こう側から秦の声が聴こえてくる。その強さを、身をもって体感する。

 音楽が高まり、さらなるうねりを生み、爆発的な推進力を保ちながら進行していく。

 透は手を開き、鍵盤の上に乗せる。

 視線はあくまでも鍵盤ではなく、前方に向けられている。

 すぐそこに、音楽がある。

 自分の手を伸ばすことで、そこにある音楽を掴み取り、この世界に出現させる。

 透はふ、と目を閉じる。

 オーケストラが一度頂点を迎えたところで、音がさっと消える。

 自然と、手が動き、漆黒の箱から、旋律が紡がれる。

 それまでの音楽とは違い、さりげなく、物憂げで、悲しさに満ちた旋律。

 ピアノを弾くまでは興奮によって支配されていた脳は、ピアノの独奏が始まると不思議と落ち着きを取り戻し、透に現れた感情を冷静に見つめることができた。

 師であったシューマンを失ったブラームスの孤独や悲しみが、旋律を通して透の体に流入するのをはっきりと自覚する。

 そして、十三年前、この曲を弾いたときの印象とは全く違っていることに気がついた。

 当時の自分は練習したパッセージを再現することだけに集中していた。何万回と練習を重ねて、本番にベストパフォーマンスを持ってくることだけを考えていた。確かに、それは必要なことではあるが、技術的なことばかりを考えていたということでもある。

 今、透の中では旋律によってさまざまな記憶や感情が引き出されていた。

 ステージマネージャーの仕事をこなす中で味わった苦悩、苦痛、煩悶。そして演奏者に対する嫉妬、劣等感、憧憬。それらの感情が次々と想起され、旋律と共にどんどんと膨れ上がってくる。

 旋律というのはただの音の振動ではない。旋律は物語となって自分の中にある価値観や感情を引き出すだけの力がある。その旋律を弾くときの年齢や季節によって、その旋律は様々な顔を見せ、それまで培った経験によっても同じ旋律が全く違うようにも聴こえる。まさに、十二年前に弾いた旋律と、今ここで立ち現れている旋律は、透の中では別のものに聴こえた。ブラームスの苦悩と、自分が今まで経験した苦悩が呼応する。

 一楽章の旋律はとにかく激情に満ち溢れたものだ。その苦しみは嵐のように激しく暴れ回る。その苦しみの中で、必死にもがくように透はピアノを奏でる。苦しみという荒波の中で、小さな船を漕いで前へ前へと進むように。遥かかなた、遠くに見える篝火の光に向かって前へ進むように、透は一心に鍵盤を叩く。

苦悩や煩悶も、嫉妬も劣等感も、すべては自分自身なんだ。それらすべてをひっくるめたものが、自分の人生なんだ。透はそう思いながら、ピアノを弾く。

 透が指揮台に視線を向けると横溝の情熱的な指揮が目に飛び込んでくる。

 指揮者の仕事は本番を迎えるまでに九割は終わっているという言葉がある。本番の日までにどれだけオーケストラを仕上げることができるか、ということで指揮者の力量が試される。

 しかし、本番における指揮者の役割も大きいと透は考えている。指揮者の身振りや表情によって観客は視覚的に音楽の流れを視ることができる。音楽は耳で聴くだけではない、目でも視て聴くことができる。「視聴」と書いて「きく」と読むのが透のポリシーだった。演奏者である透も、横溝の指揮ぶりを見て感情を昂らせる。そしてまた、鍵盤を叩く。

 旋律が進行するにつれ、負の感情との戦いがさらに大きくなっていき、苦しみが最高潮を迎えたところで、第一楽章が冒頭の重低音さながらの低音と共に幕を閉じた。

 たった一人の観客がいるホールに苦しみの余韻が残る。横溝は指揮棒をしばらくおろさなかった。透も、肩で息をしながらその横溝の姿を眺める。

 横溝がゆっくり指揮棒をおろすと同時にオーケストラ全体がふっと力を抜いた。透の体の中に蔓延っていた憎しみが下に向かってすーっと降りていく。ブラームスの苦悩と共に、透がここまで抱えてきた負の感情も流れ出していくような気がした。

 横溝は汗を拭うと再び指揮棒を構え、そっと音楽を始める。

 第二楽章が始まったところで聴こえてくるのはヴァイオリンの繊細な旋律と、秦が奏でるファゴットの伸びやかな旋律だ。レガートによって紡ぎだされる丸い旋律。普段見せる賑やかで溌剌としている人柄からは想像もできないほど、どこまでも柔らかく、穏やかな旋律。まるで疲労した透の背中をそっと撫でるようにその旋律は天から降ってくる。透は静かに目を閉じて、親友が奏でるその旋律に耳を傾ける。そして深く息を吐く。

 ヴァイオリンとファゴットの旋律が終わったところで透はピアノを奏でる。ゆったりと流れる大河のようなアダージョの序章。4分の6のリズムにそっと乗るように指をしなやかに動かしていく。

 ピアノの独奏と呼応するように時折ファゴットの旋律が姿を現す。透はちらりと秦の方に目をやると、秦の視線とぶつかり、少し気恥ずかしさを覚える。

 たおやかな旋律が進むにつれて透の中に現れるのは観客である桃香の姿だった。苦しみの向こう側に輝く焔の元では、いつでも桃香が待ってくれていた。仕事で上手くいかないときも、人間関係をうまく形成できずに困惑しているときも、桃香はいつでも輝きの中で佇み、透を励まし続けた。時には叱咤し、時には甘い言葉をかけ、支えてくれていた。

 今、桃香はどんな思いでこの旋律を聴いているのだろうか。どんなことを考えながら自分の姿を見ているのだろうか、と透は考えを巡らせる。

 他者である桃香の内面には到達することはできない。桃香が抱いている気持ちを完全に理解することは絶対できない。

 それでも、この旋律に桃香への想いを乗せれば、気持ちが通じ合うことだってあるのではないか。想いの丈が、桃香に伝わるのではないか。

 穏やかに続いた第二楽章は、静かな弦の音によって終わっていった。

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