ステージマネージャー兼ピアニスト 八重樫透の場合

「どうしたの、突然そんなこと聞いて」

 音葉は目を丸くして透の顔を見る。

 佐川のコンサートを終えて、年も明けた一月末。リヒテスホールのコンサートのセッティングが大方終了したところで、透は音葉に話かけた。

「いや、あの、コンサートはいつもやってるけど、そういう細かいことって事務局の人がやってくれてたから知らなくて、なんか、気になって」

「透くん、嘘つくの下手だな」

「え、いや、嘘なんてついてないですよ」

 透はかぶりを振って必死に誤魔化す。

「ふーん? リヒテスホールのレンタル料でしょ? まぁ時間にもよるけど、休日の夜に借りた場合は一三〇万くらいかかるね」

「一三〇…それって一日じゃないですよね?」

「当たり前でしょ。リハーサル、本番含めて四時間。それで一三〇万」

「それって、他のホールよりも高いですよね」

「まぁ市民ホールの大ホールであれば一日一〇万で借りられるところもあるくらいだし。このホールの素晴らしさは透くんが誰よりもわかってるでしょ? そんな日本最高峰のホールを独り占めしようっていうんだからそれなりのお金を払ってもらわないと困るよ」

「ですよね。平日だとちょっと安くなったりしますか?」

「まぁね。平日の朝方だったら七十万くらい。お値打ちだね。」

「それでも七十万ですか」

「当たり前じゃん。リハーサルするのだって莫大なお金がかかってるんだから。やっぱりメトロポリタン・フィルくらいの資本力がないとこのホールを拠点にするのは難しいだろうね」

「ちなみに、平日の午前中で空いている日ってあったりしますか?」

 透がそう言うと、音葉は怪訝な顔をしながら事務所に一旦戻り、予定表を持ってきた。

「えーとね、そうそう。二カ月後、三月二十三日、水曜日の午前。春分の日の二日前だね。本当は一年前に抽選して決めるはずなのに、どういうわけかここだけぽっかりと空き続けてるんだよね」

「なるほど」

「え、なに、借りるの? リヒテスホール」

「今、予約取らないと、埋まっちゃう可能性もあるんですよね」

「そりゃあね。早い者勝ちだから、リハーサルとかやりたい人がとっちゃう可能性は大いにある」

「七十万、ですよね」

 それなら、数か月ジリ貧生活を送ればなんとか捻出できる値段だ、と透は思う。

「びた一文負けないよ。というかリヒテスホールなんか借りてどうするのよ。ステージマネージャーの透くんが」

 透は息を弾ませながら、音葉の顔を見る。



「プロポーズするぅ?」

 舞台袖の隅、秦が驚きの声をあげる。

「声が大きいよ、まだみんなには内緒なんだから」

「プロポーズって、つまり、桃香ちゃんにってことかよ」

「他に誰がいるんだよ」

「へー。度胸も根性もない透がついにプロポーズかよ」

「腰ぬけで悪かったな」

「そこまで言ってないだろ。何、いつすんの。シチュエーションは決まってるわけ?」

「リヒテスホールの、舞台の上だよ」

 秦は言葉を失って口をぽかんと空ける。

「お前正気かよ」

「他に考えられなかった」

「プロポーズするために、お前リヒテスホール借りるのかよ。さすがに小ホールだよな? 小ホールだって十分立派なホールだぞ」

「大ホールだよ」

「正気の沙汰じゃねぇよ、それ」

「常に正気を失ってる秦に言われたくないね」

「俺はキャラでやってるからいいんだよ。だって大ホールなんて借りたらウン十万はするんだろ」

「婚約指輪の代わりと思えば、そんなに高い買い物じゃないだろ。婚約指輪だって、給料三カ月分の値段とか言うし」

「いや、そうだけどさぁ。ただ大ホール借りてプロポーズするだけなわけ? 結婚してください、って聞いて断られるだけかよ」

「なんで断られるの前提なんだよ」

「贅沢にも程があるだろ。結婚指輪は一生残るけど、ホールは一生借りられるわけじゃないし」

「でも、一生の想い出にすることだったらできる」

「でもなぁ」

「ブラームスを弾くんだ」

「ブラームス?」

「そう。桃香が聴きたがってる、僕のブラームスを聴かせたいんだよ。このリヒテスホールの大ホールで。もちろん、オーケストラをレンタルするほどの資金はないから、ブラームスのピアノソナタを代わりに弾くことにはなるけど、でも、桃香に聴いてもらいたいんだ、僕のピアノを」

 それは、透がずっと考えていたことだった。

 透は三十四歳、桃香は二十九歳。お互いに、将来のことを見据える時期に入っていることはわかっていた。これからの二人の人生を形作るためには、今のタイミングしかない。

 透としては佐川との邂逅が大きな役割を果たしていた。

 それまで、ステージマネージャーとしての役割に確固たる自信を築けなかった透が、傷ついた佐川を奮起させる過程の中で自分の職業に向き合うことができた。自分にできることの大切さと、自分にしかできないことの重要さに気がつくことができた。そしてもう、迷いなくこの職業と対峙するだけの覚悟と決意ができた。そのことが、桃香へのプロポーズを後押ししていた。

「なるほど。十和田湖国際ピアノコンクール準グランプリのピアノをリヒテスホールで聴けるわけだ。それは確かに贅沢かもしれない。でも、透って今はピアノ弾いてるのかよ」

 透は僅かに言葉を詰まらせる。

「十和田湖のコンクールが終わってから一回もまともに弾いてない」

 一番の問題はそれだった。長すぎるブランク。時間にして十二年。十二年間の空白期間をたったの二カ月で埋めなくてはならない。透にはその難しさがよくわかる。一週間弾かないだけで指がまったく動かなくなってしまう。だとしたら、十二年という月日は透の指を真っ赤に錆びさせるのには十分過ぎる時間だった。

「だろ? そんなブランクある人間が太刀打ちできるような曲じゃあないってのはピアノの素人の俺にだってわかる。まぁリヒテスホールを借りるのは百歩譲ってわかるとしても、ピアノの部分は厳しいんじゃねぇの」

 秦の言う通りだった。借りることは金を出しさえすれば払うことができる。しかし、自分が満足いくほどの演奏ができるかと言われると、それは困難を極める。

「でも、やるしかないんだよ。僕には、こんなことしかできない。桃香に伝えられるものっていったら、僕にはピアノしかない。僕が自分でセッティングをして、僕が自分で演奏をする。それで初めて、桃香に本当の自分を晒け出せるような気がするんだ。僕が生きて来た三十四年の月日が、そうすれば表現できる」

 ピアノ演奏の部分だけではない。リヒテスホールの中で、最高の位置で、最高の響きで、最高の音質でピアノを提供するためには、綿密なセッティングが必要だ。それができるのも、自分しかいない。

「ま、透も変に頑固な部分があるからな。ピアノを捨てるって言い出したときもそうだった。俺がいくら引き止めても、負けたら辞めるの一点張り。いつもは合理的な思考と確実な論理で物事を決定していく透があんな風に意固地になるなんて思ってなかった」

「僕も変わってないんだな」

「やることの合理性のなさに関しては悪化してるぞ」

 秦はそう言って苦笑する。

「透がやりたいっていうんなら応援するよ。失敗したところで、いつものように桃香ちゃんに大目玉喰らうだけだろ」

「できることなら喰らいたくはないけどね」

「俺ができることがあれば相談くらい乗ってやる。ただ、俺に頼れば頼るほど結婚式のご祝儀から天引きしていくからな。ご利用は計画的に」

 秦はそう言い残してリハーサルへと向かった。

 とにかく、今透にできることは、目の前に横たわる空白期間を埋めることだけだった。

 透は舞台袖から出て、ポケットにしまってあったスマートフォンを取り出して、電話帳を開く。そして何度もかけているその電話番号をタップして、耳に添える。

「もしもし」

 聴き慣れた声。

「もしもし、母さん? 透です。ちょっと今いい?」

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