自分が普段働いているリヒテスホールを含めたコンサートホールは日本でも五本の指に入るほどの優秀なホールであるということを透は確信している。音響面だけではなく、観客や演奏者に対する配慮も全てがトップクラスであり、これ以上のホールは日本にはほとんどない。

 今回のホールのような多目的のホールでの演奏を聴くと、どうしても普段触れている環境の良質さを実感してしまう。

 青森文化ホールはシューボックス型のホールであり、直方体の箱の中に舞台と客席が設置されている。二階席はなく、一二〇〇ほどの席が段々畑のように整然と並んでいる。決して悪いホールではないが、最高のホールでもない。まだまだ残響などの響きには改善の余地はある、と透は分析する。

 そんな風にホールを分析した上でも、墨田夫妻の奏でるブラームスの協奏曲は、まさに「最高」だった。

 第一楽章の冒頭、先に登場するのは墨田幹弥の奥ゆかしいチェロだ。

 芳醇なDの音がホールいっぱいに充満し、E、Fとイ短調の流れに従って音が上昇していくにつれて熱が帯びてくる。幹弥の細くしなやかな腕が弓をチェロの弦の上を踊るように滑らせ、チェロ特有の、聴いている人の体を柔らかく包み込むような音を生み出している。

 幹弥のチェロに聴き入っていると今度は淑子のヴァイオリンが産声を上げる。透の見た通り、細くも逞しい腕はしっかりとした音を奏でる。その音に呼応するように幹弥が再びチェロを弾き始め、二つの旋律が絡み合う。

 二つの旋律は、もつれながら、しかし推進力を失うことなく音楽が展開していく。息が合う、という段階ではなく、二人で一つの呼吸をしているかのように一糸乱れぬアンサンブル。少しの隙間もなく、それでいて戯れるように奏で、厳格かつロマンチックなブラームスの音楽を見事に体現している。

 まるで二人で会話をしているように、さらには愛撫をし合っているようにすら透には見えた。呼吸が重なるように、二人の身体が重なっているように見える。チェロとヴァイオリンという別々の楽器ではなく、二つで一つの楽器のように透の耳には聴こえた。

 いかに二人がお互いを信頼し合い、そして対等に認め合っているかが音からもよくわかる。透は二つの弦楽器の音色を聴きながら強くそう思った。

 また、この二人にかかれば、ホールの音響なんて関係ない、どんなホールだって最高の音楽を創り出すことができるんだ、と透は実感する。 

 職業柄、ホールの音響には人一倍神経を使ってしまう。休日に他のオーケストラのコンサートを聴きにいっても、演奏だけではなくホールの設備や舞台上のセッティングに目が行き、「この配置を変えればもっと音が良くなる」、「ホールの客席のデザインを変えれば空席時の響きと満席時の響きの変化はないはずだ」などということを考え続けてしまう。

 確かにそれも大事なことだと透は思うが、ときにはそんな環境や設備の条件を吹き飛ばしてしまう音楽と触れることができる。ステージマネージャーとしては自分の仕事を超えられてしまうことに複雑な気分にはなるが、やはりこんな最高の音楽を肌で感じられることに感謝と喜びの念は尽きない。

 二人の交流が一時中断されると、再び合奏が登場する。横溝の指揮に応じてオーケストラが鮮やかに爆ぜる。ソリストが優秀であれば、オーケストラもそれに応じてポテンシャルが引き出される。

 透は音響の細かいチェックをするのも忘れて演奏に聴き入ってしまった。第一楽章のフェルマータが終わり、僅かに冗長な残響が消えたところで透は我に返る。

「随分うっとりとした顔を浮かべちゃってるじゃないか、職人肌の八重くんにしてはめずらしい」

 透の気付かないうちに透が座っていた席の二つ横に首席トロンボーン奏者の実島秀夫さねしまひでおが座っていた。実島は一ケ月前、四月に誕生日を迎えてめでたく五十代の仲間入りをした。トロンボーンへの愛が過ぎたせいか、この年まで婚期を逃し続けていることを最近うっすらと後悔し始めたと透は飲み会でくどくど聞かされた。この楽曲の編成にはトロンボーンは含まれていないので、客席で聴いていた。

「この演奏を聴いてうっとりするなという方が酷ですよ」

 二人の視線の先、舞台の上では横溝とソリストの二人が話し合いをしている。ソロの入るタイミング、テンポの指定などを取り決めながら、音楽の精度を上げていく作業だ。

「確かに、この曲ってこんな深みがあったんだな。ブラームスが指揮をした初演は賛否両論わかれる結果に終わったらしいが、当時の聴衆にこのテイクを聴かせてやりたいよ。満場一致で参りましたって言うに違いない」

 実島は右手に持っていたトロンボーンのマウスピースを唇にあて、ぶーぶーと鳴らしてみせる。

「あそこでヴァイオリン弾いてる女があのマシンガンレディだとはどうしても信じられないな。どっかで双子の妹でも隠してるんじゃないのか」

 実島も舞台に視線をやりながら言う。透も実島も、言葉を交わしながらも視線を舞台から外すことはない。外すことができない。それだけ二人から放出されている魅力が強力であるということだ。

「おしむらくは、もう少し良いホールで聴きたかったな」

「実島さん、それは贅沢な話ですよ」

「わかってるけど、言いたくなるよ。ここじゃなくてせめて十和田湖畔のシンフォニーホールで聴いてみたかったな」

 実島の言葉に、透の顔が一瞬固まった。しかし実島は舞台を食い入るように見ているため、透の表情の変化には気づかない。

「俺もあそこで一回は吹いてみたいんだよなぁ。予算の関係とかチケットの売れ行きを考えると、日本全国から十和田湖にファンが押し寄せるくらいのイベントじゃないとだめだからなー。まだうちみたいな若手バンドじゃだめか」

 実島は独り言を言うようにぽつぽつと話す。透は相槌も打たずに、舞台に視線を送っていた。

 僕も、本当はあそこに立っていたかもしれない、と透は考えることはないこともない。

 裏方で拍手をつまみ食いするのではなく、表舞台で拍手のシャワーを浴びていたかもしれない。

 演奏が終わった瞬間、拍手の中で横溝と握手をしていたかもしれない。

 そんなあり得ない未来を想像することは一度や二度ではなかった。

 青森県、ブラームス、十和田湖シンフォニーホール、十和田湖国際ピアノコンクール。様々なキーワードが偶然にもホールの中に用意される。

 横溝とソリストたちの打ち合わせも終わり、再び演奏の体勢に入る。横溝は右腕をゆっくりと構え、そしてそっと一拍目を提示する。するとホルンの暖かな音色、そしてフルートを中心とした木管の可憐な声が響き、それにいざなわれるかのようにヴァイオリンとチェロのユニゾンによる主題が提示される。二人の旋律はゆるやかな上昇音型を描き、優しさと豊かさを湛えた響きへと膨れ上がっていく。

 透は目を閉じると、意識が旋律の中に溶け込んでいった。

 十二年前のあの春の日、穏やかな十和田湖畔に流れていた時間へと意識は跳躍していく。

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