二
「横溝先生! お久しぶりです!」
舞台で透が横溝とセッティングについての打ち合わせを行っていると下手の舞台袖から煌びやかな声が響いた。透たちが声の方向に顔を向けると、黒を基調としたシックなデザインのロングワンピースを着た女性が小走りで近づいてくる。一歩一歩走るたびに、一つにまとめられた長い黒髪がふりふりと横に揺れる。
「横溝先生の指揮でコンチェルトを弾くのなんていつ振りかしら。あのときはショスタコーヴィチのコンチェルトでしたね。先生の情熱的な指揮振りは今でもはっきりと覚えていますわ。あんなに気持ちいい拍手をもらったのは本当に初めてだった。あぁ、またあんな拍手を浴びることができるって思うと今からむずむずしちゃう。しかも今回は何と言ってもブラームス! ブラームスのコンチェルトが横溝先生の指揮で演奏できるなんて。今日ほどヴァイオリンに出会ってよかったと思った日もありませんわ」
ヴァイオリニスト、
「おや、幹弥くんはどこへ?」
と、横溝が尋ねると、その言葉に被せるように淑子は言葉を飛ばし始める。
「夫なら舞台袖で経路の確認をしてますわ。あの人ったらそういう細かいことばっかり気にしちゃうんですよ。本番よりも本番前のことを大事にするんです。本番に向かうまでを成功すれば舞台上では絶対に失敗しないとかなんとかいって、リハーサルなんて真面目にやらないでひたすら楽器持ってホール内をうろうろしてるんですから。この前だって二人でリサイタルやったら本番十分前になるのに夫がどこにも見当たらないんです。私は楽器もあるから動き回れないし、スタッフ総出で探してもらって、それでどこにいたと思います? 照明ルームですよ、照明ルーム。そこで客席の照明はいつ暗くするだの曲間はどれだけの時間暗転するだの重箱の隅を突っつくみたいに何度も何度も確認してたんですって。信じられます? 舞台に出る人間はそんなこと考えなくていいんだから、って言っても舞台に出る人間だから舞台の裏まで気を廻さなきゃいけない、なんて言うんですよ。本当に困っちゃう。あー、新幹線で来たから疲れちゃった。ちょっと楽屋で休んできますね。リハーサルの時間確認して夫に教えてあげなきゃ。じゃ、先生またあとで。楽しみましょうね」
そう言い残し、淑子はまた下手の舞台袖に去っていく。ワンピースの短い袖口から伸びる白い二の腕を舞台の照明が眩しく照らす。細くも、しなやかで、力強い二の腕。まさにプロのヴァイオリニストの腕だ、と透は感嘆する。
舞台上には嵐が去ったような静けさが広がっていた。透や横溝はもちろん、セッティングのために動いていたホールスタッフもしばし呆然としていた。
「テレビでは何回か見たことありますけど、テレビ以外でもこんなにおしゃべりなんですね」
透もついつい苦笑いを浮かべてしまう。
「彼女から普段のトークの主導権を奪うのは至難の業だよ。無暗に飛びこんでいくと圧倒言う間に弾き飛ばされて二度とは入っていけなくなる」
横溝もどこか呆れたような声で話す。
墨田幹弥・淑子夫妻はクラシック界では名コンビとして名の知れた二人である。
音大時代も同じ大学の同級生として活躍し、二人とも国内の賞を総なめにした。音大卒業後、二人はすぐに結婚し、共にベルリンへ留学。それぞれがヨーロッパのオーケストラと共演をしながら研鑽を積み、二十九歳で帰国。それからは国内のオーケストラと共演しながら、二人一緒にリサイタルを行っている。特にリサイタルの人気は極めて高く、夫婦ならではの息の合った演奏には多くのファンが酔いしれている。二人のCDはクラシック界では異例の高い売れ行きを連発し、クラシックファン以外にもその名は知られ、最近ではテレビのバラエティ番組や密着ドキュメンタリなどにも夫婦揃って出演することも多い。現在は三十八才。才気煥発でおしゃべりな淑子がおしとやかで寡黙な幹弥を引っ張っていくというおしどり夫婦っぷりもお茶の間の目を惹く。
人気・実力共に国内トップクラスの音楽家夫婦だ。
「でもこの二人が揃って協奏曲を演奏するのはこれが初めてですよね」
透は東京の練習場から持ってきた横溝専用の指揮者用譜面台に置かれているスコアを見る。
「このブラームスの協奏曲自体、そこまで演奏機会が多いわけではないからな。世界的に見ても夫婦でこの曲に臨むというのはなかなか少ないだろう」
確かにそうだ、と透は思う。東京のように人口が多いわけでもない青森県のコンサートにもかかわらず、チケットは早いうちに完売していて、主催者であるこのホールの職員も東京から来る人もいるということを透は聞いている。それだけ今日の演奏の期待度は高いのだろう。
透自身も、この演奏がどんな演奏になるのかと非常に楽しみにしている一人でもあった。
しかし、透はこの演奏を素直に心待ちにできないでいる。
青森県、そしてブラームス。その符号。
舞台上にいるとはわかっていても、やはり過去の記憶が呼び覚まされる。
「聞いているか、透」
横溝の重厚な声によって透の意識は現在まで引き戻される。
「あ、ごめんなさい」
「俺は本番前、楽屋で待機せずに舞台袖で待つことにする。袖の隅のほうにピアノ椅子を置いてくれ。忘れるんじゃないぞ」
そう言い残して横溝は舞台袖へとゆっくり消えていった。
透も気を取り直して上手の舞台袖に向かう。少し狭い舞台袖には苦労しそうだ、と思いながら辺りを見渡す。
そこにふらりと一人の男性が現れた。極めて細い体に純白のワイシャツと黒いスラックスを纏い、舞台袖のいろんな箇所をよく観察している。あまり高くない身長に比べると二本の腕は非常に長く見える。左手でかけている眼鏡をくい、とあげる素振りはいかにもインテリジェンスに富んでそうに透には見える。
その男、
「君が八重樫くんですね」
墨田はか細い声でそう言った。淑子の明るすぎる声とは対照的な声。その落ち着いた人格が声や喋り方に如実に表れているように透は感じる。
「ステージマネージャーの八重樫透です。よろしくお願い致します」
透は頭を小さく下げる。
「君の評判はいろんなところで聴いています。メトロポリタン・フィルのステマネは優秀だと」
「恐縮です」
「こういう舞台裏の通路が狭いホールで演奏するのは久々だからいろいろお願いすると思いますが、よろしくお願いします」
幹弥も恭しく頭を下げる。そのあまりにも深い礼に対して透も思わず頭を下げる。
「気になった点などはなんでもおっしゃってください。出来る限りのことをさせていただきます」
透がそう言うと、幹弥はうっすらと頬笑みを浮かべてもう一度頭を下げる。そのまま透とすれ違って舞台の方へ歩いて行った。
やはり、メディアから受ける印象通りの、寡黙で落ち着いた印象を醸している。
この夫婦はいつもどんな風に過ごしているのだろうか、と透は思う。プライベートで出かけるときも、向かう場所は全て淑子が手配をしてそれにうんうんと頷きながら幹弥がついていく、という光景が容易に想像できる。そんな二人の人間性がどのように音楽に反映されていくのか、透にとって興味深いことだった。
透は指揮台に置かれていたスコアの表紙を思い出す。
ブラームス作曲「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」
まさに協和し、奏でるための音楽であり、おしどり夫婦にはぴったりの曲であると、透は頷く。
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