開演時間が迫り、舞台袖にも客席のざわめきが届く。

 透も数多の舞台のセッティング、運営に携わり、その度に舞台袖から客席を眺めてきたが、今日の客席の熱気は他のコンサートとは異質だった。ざわめきがいつもより大きいというわけではない。客席も満員ではあるものの、リヒテスホールが満員だったことはこれまで何度となくあったため、それも特別なことではない。しかし、客席からは尋常ではない緊張感と期待感が伝わってくる。

 それはもしかしたら自分がいつもよりも緊張しているし、期待しているからかもしれない、と透は思う。いつもの緊張感とは違う。コンサートを成功させなければならない、という使命感とはまた違う。これからどんな良い演奏が繰り広げられるのか、という期待感とも違う。その自分の中に渦巻いている混沌としている感情が、客席から聴こえてくるざわめきにフィルターをかけているのかもしれない。

 佐川のショパンは今日のメインプログラム。その前にコープランド作曲、オーケストラ版「アパラチアの春」、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」が控えている。その二曲のリハーサルを聴いても、いつもとは違う出来になっていることに驚いた。「アパラチアの春」ではその広々とした音楽によって密室であるはずのホールがどこまでも広い空間に変容したかのようい感じ、「弦楽のためのアダージョ」では、透が心の底にしまいこんでいるはずの悲しみが体の表面に浮き出てきて、聴きながら苦しみを覚え、しかしその音楽にどんどん陶酔していった。この二曲だけでもこのコンサートは成功を収めるに違いないと透は確信していた。そのあとに、佐川のショパンが待ち構えている。

 開演五分前になり、楽団員たちが舞台袖に集まってくる。楽団員たちの表情もどことなくいつもとは違うように見える。誰の眼にもぎらぎらとした輝きが宿っている。音楽を渇望するような輝き。リハーサルを超えるほどの名演を創り出したいという欲望が表れているような輝き。その列の一番後ろにはコンサートマスターである堀内が控えている。黒ぶち眼鏡の奥底にある瞳は、落ち着きはらった様子だ。ただ、少し俯いて視線を斜め下に落としている。その視線の先には、昨日の佐川の視線の先にあったような、音楽の気配があるのだろうか。堀内は何を見ているのだろうか。堀内には何が見えているのだろうか。

『演奏者、入場します』

 イヤホンから音が聴こえる。透は我に返り、楽団員たちを舞台への入口まで促す。

『入場します』

 透は扉を開き、楽団員を舞台へと導く。楽団員たちはゆっくりと舞台へと入場し、各々の席へと向かう。透はその姿をじっと見守る。どの団員も、席についても椅子を動かしたり譜面台の高さを調節することはない。椅子に座った瞬間、演奏に向けて意識を集中させていく。透はその風景を見て小さく拳を握り、「よし」と呟いた。どれだけリハーサルの中で心が動かされても、セッティングを怠るわけにはいかない。その関門はとりあえず突破した。

 チューニングが始まり、客席の照明が暗くなる。

 その光景を楽屋のモニターで見ていたのか、楽屋からラユムンドが出て来て舞台袖の扉の前までやってくる。

『さて、そろそろ始まりだね』

 ラユムンドは透に言葉をかける。その瞳には楽団員たちのような輝きは秘められていない。堀内のようにあくまで余裕を持って、大きく構えている。右手には指揮棒が握られ、しっかりと前を見据えている。

『今日は良いコンサートになるね』

 透はそう話すラユムンドを見る。

『わかりますか?』

『僕レベルの指揮者になるとね、舞台袖の雰囲気を感じるだけでその日の出来栄えが予測できるようになるんだよ』

 ラユムンドはお茶目な笑顔を浮かべながらひそひそと話す。

『この舞台袖は良い。ゆとりがあって、切羽詰まっていない。確かな段取り、明確な連絡指示系統、そして演奏者に対する思いやりが感じられる。オーケストラはわがままな子どもの集団みたいな一面があるから、そのわがままをきちんと聞いているか聞いていないかは舞台袖を見ればわかるし、そしてその舞台袖の雰囲気はそっくりそのまま演奏に表れる』

 ラユムンドの言葉を聴きながら、透の心臓は高鳴ってくる。

『だから、今日の演奏会は成功する。大成功する』

 ラユムンドは透を見て、小さくウインクをしてみせる。男の色気を醸し出すほどの表情であるにもかかわらず、そんなキュートさを含んだ行為をされると透もどきりと心臓が鳴ってしまう。指揮者としてのキャリアを着実に積みながら、それでいて子どもらしい一面を持つ。それがラユムンドの魅力であった。

 チューニングの音が会場に吸い込まれていき、沈黙が立ち現れてくる。

 透は舞台袖の扉に手をかける。

 水を打ったような沈黙が会場に訪れる。

 透はじっと耳を澄まして沈黙を聴き極める。

 そして、扉を開け、ラユムンドを促す。

 会場からは拍手が巻き起こる。ラユムンドは指揮台の横で笑顔を浮かべながら客席に対して一礼をする。そしてすぐに指揮台に乗り、指揮棒を構える。レコードに針を落とすように、静かに右手を降ろすと、弦楽器の静かな囁きが聴こえ始める。その囁きに呼応するかのようにクラリネットの清らかな音が響く。



「アパラチアの春」のカーテンコールが終了し、透は佐川が待機している楽屋へ向かう。ラユムンドの隣の部屋であり、舞台から二番目に近い楽屋。そこで佐川は自分の出番を待ちかまえている。

 透は二回ノックをし、「失礼します」と言って扉を開ける。

 佐川はソファに座って、目の前にある机をじっと見つめていた。楽屋の片隅にあるモニターでは舞台の様子が流れ、僅かに「弦楽のためのアダージョ」の物憂げな旋律が聴こえる。

「二曲目が終わって十五分の休憩の終わりが近づいてきたら舞台袖にお越しいただきます。セッティングはリハーサルのときに確認した場所で行います」

 透が口を開いても、佐川は何も言葉を発さない。視線も口も一切動かさず、透の言葉も聴こえているのかどうかもわからない。

本番前の佐川を見るのは透にとって初めてだった。十和田湖では舞台に向かう小さな背中を見て、昨日のリハーサルでは舞台の上での輝かしい姿を確認した。それは聴衆と同じ観点であって、楽屋にいる佐川公彦を聴衆は見ることができない。あの素晴らしい演奏の裏にはこれだけ集中力を高める佐川がいたのか、と透は思う。

「八重樫さん」

 佐川は口を開いた。

 凛々しい声。テレビから流れてくるアダージョと混ざり合い、その声は艶を増している。

 視線はまだ下に向かって釘づけにされたまま。

「はい」

 透は小さく応える。

 すると、透が楽屋に入ってから初めて顔を上げて、透を見る。

 その表情は柔らかい笑顔だった。柔和で、優しい表情。そして、何より穏やかだ。

 しかし、透はその瞳の異常さに気がついた。

 ぎらぎらとした輝きでもなく、穏やかさや落ち着きでもなく、全く別の感情が籠められているように透には見えた。焦点が上手く定まらないで、ふるふると黒目が震えている。顔は透に向けられているのにもかかわらず、その二つの眼は透を捉えられないでいるように見える。

「どうか、しましたか」

 透は佐川に声をかける。

 佐川は笑顔を絶やさない。

 佐川の眼は踊るように震えている。

 そして、佐川は口を開いて、いつもと変わらない凛とした声で言う。

「僕の指をすべてへし折ってくれませんか?」

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