透は目を開ける。

 誰もいなくなったホール。午後一一時。体に沁み込むような静寂。舞台上に整然と並べられた椅子。その中心には指揮台と指揮者用の譜面台。

 透は境界が曖昧になった肉体をもう一度呼び覚まし、椅子から立ち上がる。

 今日も一日いろんなことがあった。リハーサルをやったことが透には遠い昔のことのように感じる。

 あとは明日の本番を無事に迎えるだけ。透は思い切り伸びをして、横の椅子に置いてあった自分の鞄を手に取り、ホールの出口に向かい、帰路に着く。

 透は帰宅途中や移動の時間ではイヤホンなどで音楽を聴かないようにしている。もちろん、イヤホンを使うことで聴力が落ちてしまうことを避けるため、というのが大きい。しかし、それだけではない。

 それぞれの音楽にはそれぞれに合った「場」がある。音大時代の師匠が何度も口にしていた言葉だ。場違いの音楽はそれだけで魅力が半減する。そして、歩きながら聴けてしまうような音楽は聴かなくてもいい。そう師匠は決まって続ける。透は少し極端な意見だな、と思いながらも、確かに自分がよく聴く音楽は歩きながら聴くような音楽ではないのかもしれない、と思う。

 六本木駅から地下鉄に乗り、私鉄に乗り換え、最寄駅に辿り着く。時間は既に一二時を過ぎている。こんなに遅くなることは最近少なくなったが、めずらしいことでもない。

 自宅に辿り着き、扉を開けるとまだ電気がついていた。リビングに入ると赤ワインを飲みながらカプレーゼを食べている桃香が目に入った。ゆったりとした寝巻を身に纏い、瀬愛部屋の中で幅をきかせている赤いビーズクッションに体重を預けている。

「おかえりなはい」

 もぐもぐと口を動かしながら帰ってきた透を迎え入れる。

「ただいま帰りました」

「随分遅かったね。まぁマーラーだからセッティングにも時間かかるかぁ」

「それだけじゃなくてね」

「もしかして琴乃ちゃんが拗ねちゃった?」

「え、どうしてわかるの?」

 透はジャケットを洋服ダンスにしまいながら驚きの声を上げる。

「琴乃ちゃんのおてんばぶりは業界では人気だもん。ステマネやってるくせにそんなことも知らないわけ? 業界の情報は逐一確認しなきゃあだめじゃないか」

 まさか一日に同じことを二回指摘されるとは透も思っていなかった。しかもセッティングには直接関係のないことで。

「大学在学中に国内の音楽賞は総ナメしちゃったからね。まぁ自信過剰なところもあるけど、それも業界ではキャラとして認められつつあるし、上手く操縦するのが吉って感じかもねぇ。実力は折り紙つきだし」

 透も絨毯の上に座り、テーブルの上にあらかじめ置かれていた空のワイングラスに赤ワインを注ぎ、口に注ぐ。ころころとワインを口の中で転がし、渋みを味わう。透も桃香もフルボディ派だ。

「でも、どうにかなりそうだよ」

「そりゃあね。どうにかなってなかったら透だってこんなところでのんびりワイン飲んでられないでしょ」

 まさにその通りである。堀内には足を向けて寝られない、と透は強く思う。

「そっちの取材はどうだったの? ヴァイオリニストのおもしろい話聞けた?」

「まぁねー。途中までは真面目にインタビューしてたんだけど、途中で向こうが冷蔵庫から日本酒持ってきちゃって。日本で客演するときは必ず飲むらしいんだよね。そんで私も勧められて、彼のマネージャーも一緒になって飲んじゃってそっからはどんちゃん騒ぎ。最終的に彼はロシア語で喋って、私は日本語で喋って笑い合ってた。あれこそ音楽だったね。透に見せてあげたかったなぁ」

 これが桃香のすごいところだ、と透は思う。どんな相手であっても瞬時のうちに打ち解けてしまう。業界の人間なら誰もが知っている大御所であっても臆することなく取材し、友達になって帰ってくる。ステージマネージャーとしてこの技術を少しわけてほしいくらいだった。

「それで日本酒飲み過ぎたからワイン飲んで中和してるの」

「わけわからん」

 透はスライスされたトマトとモッツァレラを指でひょいとつまんで口の中にいれる。そしてまた赤ワインを口に流し込む。酸味とこくと渋みが絶妙に混ざり合って、非常に美味である。

「明日の演奏会は来られそう?」

「うん。明日はなんの取材も入ってないし」

「ダメ出しはお手柔らかにお願いします」

「え? ダメ出しするために演奏会聴きにいくのに」

「そんな後生な」

「セッティングにけちつけてくれる人なんてお客さんの中には皆無でしょ。少しはありがたく思ってよね」

「ありがたさの極みすぎて余っちゃってるよ」

「じゃあ銀行に貯金しておきなさい」

 桃香はボトルに残ったワインを全てグラスに注ぎこみ、グラスにたゆたう赤い液体をうっとりとした顔で眺めていた。

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