七
『客入りがちょっと遅れてるから開演を五分遅らせます』
インカムからホール責任者である音葉の声が聴こえる。
「了解しました」
透も小さい声でそれに応える。
開演が水曜日の一九時半ということもあり、仕事終わりにホールに駆けつける人も多い。透がいる下手の舞台袖の楽屋は客席の様子は見えないが、おそらくまだ空席が目立つのだろうと透は推測する。
現在時刻一九時一五分。開演まであと二〇分。
透は横溝の楽屋の中にいる。
扉の前に立ち、横溝の様子を窺う。
横溝もソファに座り、沈黙を保っている。
大きく開いた足の膝に肘を乗せ、中心で手を組み、その手をじっと見ている。
自慢のオールバックはきっちりと整えられ、部屋の照明を乱反射させている。
机の上には唯一の武器である指揮棒が佇む。
横溝は微動だにしない。瞬き一つすらしない。
呼吸をしていることも感じさせないような沈黙を湛えている。
透は本番前の楽屋に漂っている濃密な時間が好きだった。
この時間の濃密さを味わえるのは楽団のステージマネージャーただ一人しかいない。
客席でコンサートが始まるのを今か今かと待ち構えている聴衆も、これから楽器を奏でようとしている演奏者も、コンサート作りに携わる他のスタッフも、誰もこの空間にいることはできない。
それが許されているのは、このコンサートにおいては透ただ一人なのだ。
その特権性を透は価値あることと認識している。音楽は誰しもが共有できる。しかし、指揮者が音楽を生み出す気配を感じることができるのはステージマネージャーのみだ。
透は横溝の頭の中にはどんな風景が現れているのかを想像する。
五線譜と音符が嵐の海のように激しく渦巻いているのかもしれない。
マーラーの波乱万丈な人生に自分を重ねているのかもしれない。
もしくは、真っ白という概念すらも存在しないような無の境地にあるかもしれない。
そうやって横溝のような指揮者やソリストの表情や仕草を観察したり、頭の中を想像することも透は好きだった。
『時間です。客席暗転、演奏者、合唱団入場します』
インカムから音葉の声。
それと同時に透は横溝の集中力を切らさないように楽屋を離れる。
すでに舞台袖に待機していた演奏者たちが入場を始めている。演奏者たちの表情はリラックスしているように見えるが、その集中力は極限まで高められている。普段は騒いだり遊んだりするのが大好きな少年少女のような人たちだが、楽器を持って舞台袖に来ればどの演奏家も職人になっている。
入場していく姿を見ながら、透は琴乃の楽屋へ向かう。二回ノックをして、扉を開ける。
琴乃は移見の前に背筋をぴんと伸ばして佇んでいた。両方の掌を腹部のあたりでゆったりと重ねている。
背中が大きく開いたワインレッドのドレスに身を包んでいる。華美な装飾はなく、ボディラインがしっかりと把握できるようなシンプルなドレス。まさに琴乃の実直過ぎる性格を表していると言っていいと透は思う。
鏡に映った凛とした表情が透にも確認できる。
琴乃はこの瞬間、何を思っているのだろうか。
表情には緊張や焦りや恐怖などの感情は現れていない。感情は統制され、戦闘態勢は完璧に整っているように見える。
しかし、その内面に渦巻いているものを見透かすことはやはり透にはできない。
そこに表れている表情は本物なのか。それとも偽物なのか。
偽物だとしたら、表情に表れている凛とした感情は、一体どこから来ているのか。
そもそも、人間に「内面」という精神的なものが存在するのか。
そんな音楽とは遠く離れた主題すらも透の頭には浮かび上がってくる。それだけ琴乃の表情は深淵であり、そして魅せられるものだった。
「琴乃さん、お時間です。舞台裏にお越しください」
「はい」
昨日のリハーサルのときに聴いた声とは全く違う声であることが透にはわかる。
本番の舞台に向けてさらに極限まで研ぎ澄まされた声。
声楽に疎い透ですらもその違いがはっきりとわかる。
これが、本物の声楽家。
透は息を飲む。
さらさらと衣擦れの音をたてながら琴乃は優雅に歩き、楽屋を出る。
舞台袖にはすでにコンマスの堀内の姿しかなかった。あとは、堀内が入場してチューニングをし、ソリストと指揮者が入場すればコンサートは始まる。
『演奏者入場完了。あとは透くんのタイミングでお願いね』
音葉の声。「了解」と透は短く応える。
ステージマネージャーにとって、このタイミングを図るのが一番重要な仕事であると言っても過言ではない。
チューニングが終わり、そこには水をうったような沈黙が会場に現れる。
その一瞬の沈黙によって聴衆の集中力をぐっと引き上げなければいけない。
短くても聴衆は浮足立ったまま指揮者を迎えることになり、長すぎると聴衆の集中力はあっという間に霧散し、だれてしまう。
一瞬のタイミングを逃してはならない。
横溝もこの時間にはソファから腰を上げているはずだ。
合図は扉を開けること。扉を開ければ、透が何も言わなくても横溝は舞台へと向かう。
透は全神経を耳に集中させる。
沈黙を聴き逃してはならない。
沈黙を実感しなくてはならない。
沈黙を吟味しなければならない。
「堀内さん、お願いします」
透がそう言うと、優しい表情で堀内は頷き、入場する。
客席から拍手が上がる。
堀内は一礼し、チューニングを始める。
会場にオーボエのAの音が響く。
音が生まれる。
その音を継いで堀内がAを鳴らし、堀内に従うように管楽器、弦楽器がチューニングを始める。
一気に音が広がる。
透の耳にも音が流れ込み、体の血流がどっと激しくなる。
心臓は高鳴り、耳の中に張り巡らされている管が一気に広がるような感覚に襲われる。
鼓膜は突っ張り、どんな細かな振動をも掴む。
音楽だ。透の頭の中にはその言葉がはっきりと浮かぶ。
何度迎えても、コンサートが始まる前の興奮は薄れることはない。透は、この始まりの気配をしっかりと噛みしめる。
チューニングが収束していき、音が弱まり始める。
透は楽屋の扉に手をかける。
管楽器の音が止み、弦楽器の余韻が会場に残る。
手に力を入れる。
余韻がじわじわと消えていく。
残響は客席の闇に溶けて、沈黙が訪れる。
ドアノブをゆっくりまわす。
沈黙。
まだだ。
沈黙。
まだ。
沈黙。
透は扉を開け放つ。
横溝奏一郎が、部屋を出る。
真っ直ぐ前に進み、舞台袖で横溝を待つ琴乃に一瞥をくれる。
透は二人の背中を見る。
大丈夫だ。
透は拳を握りしめる。
二人の姿が舞台に燦々と降り注ぐ照明に消えていく。
同時に、客席から拍手が起こる。
透は拍手を聴いて、再び「大丈夫だ」と確信する。
琴乃は小さく一礼をして椅子に座り、横溝はやおら指揮台に昇る。
間髪いれずに、右手を上げ、そして振り下ろす。
八本のホルンが、天に向かって嘶く。
午前一時半。
タクシーに揺られながら自宅に向かっていた。
コンサートは大成功を収め、直後に大成功を祝した大宴会が敢行された。
夜十一時に決まって就寝するという習慣がある横溝は早々と会場を後にし、残された団員たちは教師がいなくなった修学旅行生のように飲めや騒げやと大盛り上がりを見せた。
アルコールがなみなみと注がれた脳はふわふわと浮かんだような感覚に陥り、そして会場いっぱいに鳴り響いたマーラーの音楽、余韻が消えて横溝が腕を降ろした瞬間に起こった嵐のような拍手が頭の中にいつまでも鳴り響く。
拍手の音は全て舞台上にいる演奏者に向けて注がれる。
その拍手を透はこっそりとつまみ食いをしている。
今日の拍手は、格別の味がした。
ただ、そんな悠長なことを考えられるのも今のうちだった。
家に帰れば、どんな時間であっても桃香のダメ出しが待っている。
しかし、ダメ出しは嫌なことだけはない。桃香との長い付き合いの中でこのダメ出しにはある規則性が含まれていることに透は気がついたのだ。
その規則性とは、「コンサートの評価によってテーブルに用意されている酒が変わる」ということだった。
ダメ出しが最も少ない日、つまり最高評価の日はワインが置いてあり、評価が下がるにつれて焼酎、ビール、発泡酒、ハイボール、チューハイと変わっていく。
なので、その日のダメ出しの厳しさを予測する上では、机の上の酒を見ることが重要になる。
ただ、いつかダメ出しがない日を実現したいというのも透の大きな目標だった。
家の前に着き、料金を払い、タクシーを降りる。
家の扉を開けると、やはり明かりがついている。
おそるおそる透はリビングへ続く扉に手をかける。ある意味、指揮者の楽屋を開けるときよりも緊張する。
意を決して、透は扉をあける。
目に飛び込んできたのは、漆黒の液体。赤ワインだった。
「ちょっと座りなさい」
桃香の声は厳しい。
しかし、透の顔はすでに綻んでいた。
「よろしくお願いします」
そう言って、透はダメ出しの海に体を擲った。
≪一章 了≫
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