五
「リヒテスホールに午前十時半集合? どういうこと?」
透の隣に座って梅酒をロックで飲む桃香が怪訝そうな声をあげる。
本番の三月二十三日まで二週間に迫った夜。透はついに意を決して桃香にリヒテスホールへの誘いをかけた。
BGMはリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」。シュトラウスの最晩年の傑作。二十三本の弦楽器がうねるように絡み合う。
「その日、仕事ある?」
「いや、確か午後から取材だから午前中は空いてると思う」
「ならよかった」
「質問に答えなさいよ。なんでそんな朝早くからコンサートホールに行かなきゃいけないのよ」
「まぁ、あれだよ、来てからのお楽しみ」
しどろもどろになりながら応える透を見ながら桃香はグラスを傾ける。
「ふーん、リヒテスホールでプロポーズとかはやめてね」
一瞬、透の動きが完全に固まる。
「そんなことするわけないよ」
「棒読みになってる」
額に汗が浮いてきた透を桃香いたずらっぽい笑顔で眺める。
「昔から透は嘘をつくのが苦手なんだから。もう少しうまく表情作らないとだめだって」
その言葉に、透は淑子の満面の笑みを想い浮かべた。
完璧に自然で、完璧に愛らしい笑顔。その笑顔で夫と話し、夫と関係を保つ。
しかし、それが完璧であればあるほど、それは嘘が厚塗りされているということだ。
淑子はその嘘を受け入れ、夫との冷え切った関係を続けている。
私たちはそうやって繋がって生きていくしかない。
淑子の声が透の頭に再生される。
「別に無理して嘘をつく必要もないけどね」
「つこうとしてもどうせバレるからね」
「大丈夫大丈夫、なんにもバレてないよ。透はリヒテスホールで私にプロポーズをするわけじゃないよね。取材の依頼とか、そんな感じに決まってる」
桃香はくすくすと笑う。
透は梅酒を飲む桃香の横顔を眺める。
部屋に流れるリヒャルト・シュトラウスの曲のように、目まぐるしく変化する桃香の表情に透は魅了されていた。悲しいときには泣き、怒ったときには目を吊り上げ、嬉しい時には全力で破顔する。自分の中にある気持ちを言葉にしたり、表情としてアウトプットすることが苦手な透にとっては大きな憧れの対象だった。桃香の表情を見て、桃香の涙を学び、桃香の笑顔を学び、そして自分の表情を作っていく。自分の感情というのは他者の感情によって作られる。そのことを桃香を通して実感する。
桃香からは与えられるばかりで、これまでろくなお返しをしたことがなかった。
だから、ここで渾身のピアノを届けなくてはならない。
これはプロポーズでありながら、大きな恩返しなんだ。
透はシュトラウスの音楽に耳を傾けながら桃香を想う。
「人の顔をそんな嬉しそうな顔しながらじろじろ見ないで」
桃香は横目で透を見て諭す。
「そんなに嬉しそうな顔してた?」
「うん。これ以上の幸せはこの世の中にはないってくらいの顔してるよ」
「そっか」
その表情は、桃香がくれたんだ。
透は心の中でそう呟いて、テーブルに置いてあるロックグラスを手にとり、桃香と同じように梅酒を喉に流し込んだ。
三月二十二日、午後十一時半。透はリヒテスホールの前にいた。
冬の寒さは徐々に和らぎ、春の風が吹き始めている季節ではあるものの、まだまだ夜は冷え込む。ビルとビルの合間を縫って通り抜ける冷たい風が薄手のコートを纏った透の体を舐めていく。
スタッフ通用口からホール内に入り、舞台へと歩みを進める。
舞台袖から舞台へ出ると、まだ今日の公演のセッティングは片付けられずに、そのままの状態で残されていた。この日はメトロポリタン・フィルではなく他の楽団の演奏会だったために、透が施したセッティングではなかった。
やはりステージマネージャーが違えば椅子の配置も大きく変わる。譜面台の置き方や椅子の向き、間隔が透の理想としているものとは大きく異なっている。オーケストラによって音の作り方は変わるのでどちらのセッティングが優れているか、劣っているかという議論はできない。透にとってはそうして別の手法で音楽が作られていることが嬉しかった。その方が、音楽が生き物のように感じられるから。
指揮台に目をやるとそこには下村音葉が腰掛けていた。膝を折って、客席の方に向かってちょこんと腰掛けている。
「お疲れ様です」
透は音葉に歩み寄りながら声をかける。
「うん、お疲れ」
音葉は客席を見ながら透の言葉に応える。
「ごめんなさい。いろいろわがまま言っちゃって」
「本当だよ。透くんのキャラとしてはわがままを言うのはルール違反なんだよ。透くんは周囲に気を配りながら他の人が幸せになるにはどうしたらいいのかってことを考え続けるキャラなんだからさぁ。自分本位になった時点で透くんのアイデンティティは崩壊してる」
「ひどい言われようですね」
透は苦笑して、コンサートマスターが座る椅子に腰掛けた。
「でも、明日は透くんと桃香ちゃんが主役なんだから、ちょっとのわがままは許してやろう」
「ありがたいです」
「館長に話はつけておいたから。透くんのお願いなら断ることはできないって」
透は前もって音葉に「前日の夜からセッティングをしたいから、夜中にホールを開けてほしい」というお願いをしていた。二十三時頃にその日のコンサートの片付けも終わり、その後から自分でセッティングを行うつもりだった。
「聞いたことないよ、夜通しセッティングして、リハもろくにやらずに朝っぱらからぶっつけ本番でブラームスの協奏曲弾こうなんて話。ブラームスなんて午前中に聴くような音楽じゃない」
「僕はこれから徹夜するんだからいいんですよ。僕にとっての開演時間は三十四時半なんです」
「まったく」
音葉はため息を一つついて指揮台から立ち上がる。
「本当に手伝わなくていいんだね?」
「はい。全部自分でやりたいんです。それが、礼儀だと思うから」
「こういうところは頑固なんだよなぁ、透くんも。普段の仕事でもそういう頑固さとか図々しさって必要だよ」
「猛省してます。でも、ここまで頑固でいるのは今日だけです」
「確かに。これ以上透くんのアイデンティティを崩壊しても私も困るし」
音葉は屈託なく笑う。
「透くんがこのホールに最初に来たときのことって覚えてる?」
音葉は空っぽの客席に視線を向ける。
「一番合戦教授の紹介っていうからちょっと期待してたけど、あの頃の透くんって本当に人間らしさがなかったんだよね。もぬけの殻っていうか。ちゃんと仕事はこなすし、くだらないこと話せば笑ってたけど、笑ってるのは顔だけで、中身がまったく見えなかった」
「そんな虚無感ありましたか」
「うん。自分では気づいてなかったかもしれないけど、当時はすごく心配してた。事情も知ってたし、確かに仕方ないことかも、って思ってたけど、でもあまりにも人間として空っぽで、この子はこれから何を生き甲斐にして生きていくんだろうっていっつも考えてた」
ピアノを失い、ピアニストになるという目標を失ったときの自分。自分では自分を奮い立たせて働いているつもりだったが、音葉から見ればやはりその奮起も仮そめにすぎなかったのか、と透は思う。
「でもね、透くんはステージマネージャーになってから大きく変わった。目の前にある音楽をどうやって良くしていこうか、客席を埋め尽くしている聴衆をどうやって満足させるのかってことを考え始めてから空っぽだった中身がだんだん満たされていくような感じがした。ホールスタッフをやってるときよりも絶対仕事内容は大変だし、プレッシャーも大きいとは思うけど、それでも、明らかに透くんはあのときよりも生き生きしてるよ。うん、生きてるって感じ」
「じゃあ、入りたての頃は死んでたんですね」
「うん。比喩じゃなくて、透くんは一回死んだんだと思う。そして、生まれ変わった」
透も、音葉と同じように客席に目を向ける。
「桃香ちゃんのおかげも大きいけどね。桃香ちゃんがうまく透くんを操縦してくれた。ステージマネージャーという仕事の功績も大きいけど、桃香ちゃんが透くんに対して果たした業績は大きい。舞台袖が透くんを蘇らせて、桃香ちゃんが透くんを育んだ。そんな感じかな」
「まるで赤ん坊ですね」
「そうだよ。透くんはまったく赤ん坊だよ。ステージマネージャーとしてのキャリアは五年。これからが育ち盛りでしょ」
音葉は客席から透へと視線を移す。
「私たちは、生かされてるんだよ。喜びも悲しみも、他人がいなければ味わうことができない。そういう意味では、一人だけで生きている人間なんてこの世にはいない」
桃香によって悲しみと喜びがもたらされたように。
「だから、明日の公演は失敗できないね」
「はい」
今まで桃香が聴いてきたどんな演奏よりも素晴らしいものにしなければならない。
桃香にとっても、自分にとっても、大事なはなむけになるためにも、最高のブラームスにしなければならない。
「じゃ、あとは頑張って」
音葉はひらひらと手を振りながら舞台袖へと消えていく。
その背中を見送って、透はセッティングへと行動を移す。
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