8-5

高地が部屋の扉をゆっくり閉める。


「星崎。実はさっきのティエラの提案。あれはすでに本部での会議でも話が出ていた。クロノスプログラムを起動させ遠隔起動停止が成功すれば、この件は解決する可能性が高い。しかし、ティエラは正常起動している。つまり、所有法人の代表者が強制起動停止の同意書にサインしなければ、本部長命令と言えど、起動停止をさせるような行為をアンドロイドに対して実行できない」

「本部長はクロノスプログラムの発動命令を出しているんですか?」

「ティエラの承諾と所有法人、まあこの管理局だが、その同意が得られればな」

「そんな……なんてこと……」


大切な誰かの存在が、その確かなぬくもりが消えてしまうことについて、どれだけの人がその痛みを知っているだろうか。その痛みや悲しみは経験したものにしかわからない。ここでまたそれが繰り返されるというのか。もしそれが運命なのだとしたら、僕はこの運命にどう向き合えばよい?抗うか、従うのか、ここで僕にその決断を迫ること自体が残酷な運命と言うべきではないだろうか。


「ティエラは受け入れている。星崎、タイムリミットまで数時間、ティエラのそばにいてやってくれ。後はお前に任す」


そう言って高地は僕の肩を軽くたたくと、一枚の書類を手渡してきた。


『アンドロイド強制起動停止に関する同意書』


僕は震える手でそれを受けとった。高地が部屋を出て行ったあと、僕は会議室の椅子に座りこみ、しばらく動けなかった。涙があふれてきて、どうにも止まらなかった。


人間の進化を「生物学的な進化」と「技術的な進化」に分けるとするならば、ここ数百年においては後者による進化が急速に進んでいることは間違いない。人間の機械化、その果てに、人間組織の何を残せば機械ではなく人といえるのだろうか。こうした問いから明らかなのは、“人たらしめる基準”が社会から要請されるものであることに他ならない。アンドロイドと人間との間に、もやは明確な境目など存在しないのだ。ティエラの強制起動停止なんて今は考えられない。僕はどうしようもない無力感と絶望感に包まれながら、涙を流し続けた。


どのくらい時間が経っただろう。夕日は沈み、あたりが暗くなる。ここは、いつもと何も変わらない品川の街。しかし、横須賀では今でも、武装アンドロイドと、警察の特殊急襲部隊が、それぞれの思いを錯綜させながら対峙している。この国は決してテロリストとは交渉しない。それは十分に分かっている。取るべき手段が一つしかないことも。


ドアの開く音がした。僕は顔を上げることもできない。誰かが入ってきて、こちらに向かってゆっくり歩いてくる気配を感じる。


あの足音……。すぐ後ろにいる。小さな手が僕の目の前にかかる。後ろから抱きしめられている。


「優樹、わたしは大丈夫」


僕はティエラの手を握る。こぼれ落ちそうな涙を必死でこらえながら、しばらくそうしていた。


「同意書、サインしてほしい」


僕は顔を上げた。机の上におかれた一枚の書類をあらためて見る。さきほど高地に渡された強制起動停止の同意書だ。ティエラがクロノスプログラムを使うことにより、ティエラも起動停止してしまうため、所有法人代表の同意書が必要なのだ。本来では上野局長がサインするはずなのだが、高地が配慮してくれたのだろう。


「これにサインしてしまえば、ティエラは消えてしまう」

「わたしは消えないよ。ずっと、優樹のそばにいる」


僕は後ろを振り返り、ティエラを見た。彼女は笑顔だった。どうして、こんな時に……。


僕はこの時、ティエラの意志を理解した。彼女は自分が消えてしまうことを受け入れている。これしか方法がないこと、この方法でないと世界の秩序を回復できないこと。すべての覚悟を決めているからこそ、彼女は笑顔でいられるんだと。僕は椅子から立ち上がり、そのままティエラを抱きしめた。そして、同意書にサインをした。


******


僕たちは結局、そのまま朝まで、会議室に二人でいた。高地も、石上も、守月も、上野局長も、経理課の人達も、誰一人、この部屋には来なかった。そしてゆっくり夜が明け始める。時間は止まらない。タイムリミットの8時は確実に迫っていた。


「優樹、行こう。みんなが待ってる」


僕はうなずいて、会議室のドアを開けた。狭い廊下をティエラと手をつなぎながらゆっくり歩き、整備課のメンテナンスルームの扉をあける。5区管理局のみんながここで待っていた。


ティエラを充電ポッドに座らせると、僕はそばにいた高地に一枚の書類を手渡した。


「高地さん、これ、お願いします」


ティエラの強制起動停止に関する同意書だ。高地は無言だったが、書類を受けとると、大きくうなずいた。


石上は自分の机に向き直るとパソコン端末を操作し始めた。僕は充電ポッドに座るティエラの隣に座った。ティエラの小さな手を握ると、ティエラは僕の手を握り返してくれた。涙がこぼれそうで、僕は顔をあげられない。


「優樹、あなたに出会えてよかった」


こらえていた涙はその抵抗もむなしく頬を伝い続ける。


「わたしのために泣いてくれて、ありがとう。またいつか、またいつか、星空をみよう」

「うん、そうだな」

「新宿の夜景も」

「ああ、そうだな」

「湘南の海も」

「ああ」

「わたしはいつでも、優樹のそばにいるから」


ティエラは石上の方に顔を向けると、軽くうなずいた。


「大丈夫。ルナ子、始めよう」


石上はうつむいていたけど、彼女も泣いていた。


「守月、例の5体のアンドロイド、個体識別番号を読み上げて」

「はい。M-990001、M-990002、M-990003、M-990004、M-990005。以上5体です」


石上のキーボードをたたく音だけが鳴り響く。


「準備完了。上野局長、指示をお願いします」


「優樹、またね」


ティエラは微かにほほ笑んだ。僕はいつもこの笑顔を見たいと、そう思っていた。またいつか、またいつか、君の笑顔に逢いたい。


「ティエラ……」


「陸上自衛隊配備アンドロイドM-990001~5番、並びに第5区機動捜査課配備アンドロイドC-980001番の強制起動停止実行を許可する」

「許可命令確認。遠隔起動停止……実行」


「また会おうね、優樹」

「うん、また……」


握りしめたティエラの手から力が徐々に抜けていくのが分かる。ティエラの瞳が閉じられていく。30度しかないティエラの体温はどんどん冷たくなっていく。


「遠隔起動停止完了。標的アンドロイド、及びティエラ起動停止しました」

――いつかまた、またきっと会おう。


陸上自衛隊のアンドロイド5体とティエラが起動停止した後、僕は何が起きたのかよく覚えていない。世界から音が消えてしまったと錯覚するほどに、誰の声も頭の中には入ってこなかった。僕は無音の世界でしばらくティエラのそばにいた。まるで寝ているように、そして、何か楽しい夢でも見ているかのように、彼女はとても穏やかで、微かに微笑んでいるような、そんな顔をしていた。


横須賀では、武装したアンドロイドが起動停止した後、警視庁の特殊急襲部隊がビル内に潜入。80名の人質は無事保護され、近藤は逮捕された。佐々木は、ビル屋上にて自殺を図ろうとしたところ、突入した警察官に保護されたそうだ。史上最悪のアンドロイド暴走事案と言われたこの事件であったが、公式の発表では死傷者は一人も出なかったという。


ティエラは起動停止後、5区管理局のアンドロイド回収車両に運ばれた。田邉重工本社へと運ばれるのだ。車を運転するのは高地。そして、5区管理課職員全員がティエラを見送った。

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