アメのソラ
星崎ゆうき
1.再会
1-1
東京都。かつてこの街は23区という、おおよそ今では想像もできないくらい細かな行政区分で仕切られていた。首都圏を囲むようにして広がっていた住宅地域には1000万人以上の人々の暮らしが存在し、そこに張り巡らされた公共交通網は、人の流れを、生活のリズムを、そして都会の風景を形作っていた。
高齢化が進み、この国の総人口が8000万人切ってしまった2050年代、こうした行政区分にとりわけ大きな魅力はない。市町村合併はもとより、関東地方のほぼ全域が東京都と呼ばれるようになってもう20年がたつだろうか。
星を眺めたあの日は、朝から少し雨が降っていた。灰色の空に包まれた渋谷の街には、人気のない無機質な雑居ビルがところ狭しと立ち並んでいる。かつて商業都市として栄えたこの街も、人口の激減と共に緩やかに衰退して、その鮮やかさを失った。
僕は傘をさすのが苦手だ。道玄坂のアスファルトに点在する、小さな水たまりをよけながらも、気をつけて歩くのだけど、どうしてもズボンのすそが濡れてしまう。渋谷駅まで、あと少し。でも、その距離を、ほんの少しだけ見くびったかもしれない。
「首都高の下を歩けばよかったな……」
東京の風景も、この50年で大きく様変わりしたそうだ。21世紀初頭に比べれば半減したといわれる総人口、そしてそのほとんどが高齢者だから、街の景色が変わるというのは、当然といえば当然かもしれない。都心でも郊外でも、人通りは少なく、使われなくなった建物ばかりが残っていく。どことなくこの街を取り巻く空気が隙間だらけというか、色の無い閑散とした景色ばかりが目に付く。でも僕はそんな静かな東京が好きだった。そしてこの街の存在は、君といた空間そのものであり、何よりも大切な場所として、僕の記憶と、そして心のようなものに刻み込まれている。
僕は君の待つ、東急東横線渋谷駅の自動改札を目指していた。東京と横浜をつなぐ私鉄路線。そして都内で唯一となってしまった私鉄路線。
「10分ほど遅刻……。アメに怒られる……かも」
いつもの改札の、そしていつもの場所に君はいた。駅構内を歩く人たちの足元を眺めるように、君はうつむいたまま立っていた。
「ごめん、遅くなった」
「大丈夫。雨だしね」
僕に気づいて顔を上げた彼女の表情は少しだけ和らいだように見えた。
彼女は、列車に乗っていても、車の助手席に座っていても、流れていく街の風景を見ている。言葉数は少なく、無表情でいることの方が多いのだけれど、でもたまに見せる笑顔が素敵で、僕はいつしか君に魅かれたんだ。
僕たちは渋谷駅をいったん出ると、明治通りを挟んで駅の反対側にそびえるビルへ向かった。このビルの屋上には東京でも珍しいプラネタリウムがある。
「
エスカレーターに乗り、僕が雨に濡れた傘をたたんでいると、アメは小声で言った。
「ああ……」
僕は、自分のズボンのすそを確かめると、なんだか少し恥ずかしくなって、生返事を返した。
東京にはかつてプラネタリウムが2か所あったらしい。僕が物心ついたときには、ここ、渋谷にしかプラネタリウムはなかった。なんとなく星空を見たい人なんて、結局のところ少なくなってしまったのかもしれない。でも僕は星が好きだ。特に理由があるわけじゃない。いつだったか、アメにその理由を聞かれたとき、僕の名前が“星崎”だからかもしれないと言ったら、彼女は珍しく笑っていた。アメとはここに何度も足を運んだ。
ドーム・スクリーンは直径20メートル。巨大な天球の真下にある400以上の座席に人の姿は少なく、観客はまばらだった。プラネタリウム投影機は田邉重工製のレンズ式投影機で、デジタル式投影機が当たり前のこの時代、世界的にも珍しいものらしい。中心までの高さが3メートル、重さが2トンもあるこの古びた投影機は、デジタル投影機では絶対に見ることができない有機的でどこか懐かしい夜空を描き出す。
ドーム・スクリーンに投影されている昼の光が、ゆっくりと夜の闇に変わっていくその間に、小さな星が一つ、また一つ、そうして気づけば僕たちは約9000個の星々に囲まれていた。
「この夜空のどこかに落ちていきそうな感覚が、少しだけ怖いんだ」
アメが小さな声でつぶやいた。僕がアメの手をそっと握ると、握り返してくれる彼女の手の力が、そのぬくもりが、僕にはとても心地よかった。頭上に映し出される北斗七星を眺めながら“このまま夜空に落ちていきたい”僕はむしろそう願った。
「優樹、今日はありがとう、楽しかったよ」
プラネタリウムを出ると、アメは少しだけ嬉しそうな顔でそういった。あまり感情を出さない彼女が楽しいという言葉を使うことはめったにないから、僕もうれしかった。
「僕も楽しかった。また帰ったら連絡するよ」
そう、それがアメの笑顔(それが笑顔と呼べるのかは良く分からないが)に出会えた最後の瞬間だった。
――あの時、なぜ彼女を自宅まで送らなかったのだろうか。
言葉にしてしまえば、そういうことだ。しかし、言語化することでそぎ落とされている自責と後悔とにまみれた複雑な想い、胸を締め付ける得体のしれない感情の重さは、背負った人間にしか分からないだろう。それを背負いつつ世界を歩いて行かなければならないというある種の残酷さは、当の本人しか知りようがない。
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