5-4
誰かにそっと頭をなでられている。そんな夢を見た気がした。
意識が現実に戻りかけている。深夜だろうか。窓の外はまだ暗い。やはり僕は寝てしまったようだ。ティエラの充電ポッドが放つ青い光が部屋をわずかに照らしている。この青い光に包まれた空間はどことなく幻想的で、そして優しい。目の前には小さな手がある。これはきっとティエラの手だろう。その手に力を感じる。つまりティエラが握り返している。
「ティエラ?」
どうやら僕は、ティエラの膝にうつぶせたまま寝てしまったらしい。
「あ、ごめん」
反射的に僕はごめん、なんて謝ってしまった。
「優樹、ずっとここにいたの?」
まさかティエラが起きていると思わなかった僕は、とっさにどうしてよいかわからず、ティエラの顔を見つめていた。ティエラの声をずいぶん長い間聞いていなかった気がする。
「良かった。無事で」
ティエラは相変わらず無表情だけど、大きな瞳は確かに開いて、時折ゆっくりと瞬きをしながら僕を見ている。
「優樹、一つ聞いてもいい?」
ふと我に返り、あわてて握っていたティエラの手を放すと、僕は折りたたみ椅子に座りなおした。
「ああ。どうした?」
「あの時、どうしてわたしを助けたの?」
「どうしてって、そりゃ……」
「あの時、応援がくるまで待っていれば、あの盗難機体を無傷で回収できたかもしれない。でも優樹はそうしなかった」
「……」
「優樹、わたしは優樹に辛い過去を思い出させてしまっている?」
アメのことか。そう言えば僕はティエラにアメの写真を見せたことを思い出した。話さなければならない、という衝動があの時の僕には確かにあった。その理由についてはうまく言葉にできないのだけど、たぶん僕は、自分のことをティエラに知ってほしかったのだと思う。
「そうであれば、わたしはここにいない方がいい」
ティエラは僕から視線を反らし、うつむきながら言った。
「つらい過去。つらい記憶。そうつらい記憶だよ。こんなことなら最初から全部なかったことにしたいって、ずっと思っていた。5年間ずっと。でも忘れる事なんてできないよ。思い出なんて誰かの救いになることはないかもしれない。むしろ誰かを一生苦しめ続けるものかもしれない。だけど、その苦しみを背負いながら毎日あがいて、もがいて生きていく。そういう決意をしないと前に進めない人間はたくさんいる。俺だけじゃない。きっとたくさんの人がつらい過去を背負っているから。だからティエラが気にすることじゃないよ。大丈夫。心配しないで」
ティエラはしばらくうつむいていたけど、やがて顔をあげ僕を見つめながら言った。
「優樹は、とても強いね」
「そんなこと……ないけど。ただ、俺にはあの時、君を見殺しすることなんてできなかった」
「どうして、そこまで……。わたしはただの機械。他に優先されるべきことはたくさんある。わたしのシステムはいくらでもクリーンインストールできる」
「君の記憶や人格がなくなってしまったら、そうしたら俺は悲しい。とても悲しいことだよ」
僕は椅子から立ち上がって、部屋の窓から外を見た。夜が明けかけている。もうじき朝が来る。
「俺、一度帰るな」
「うん。優樹?」
僕はティエラをふりかえった。
「どうした?」
「ありがとう」
なんとなく気まずくなって、僕は自分の家に帰った。部屋に戻ると、まずシャワーを浴び、そして歯を磨き、鏡で自分の顔を見てみる。少しやつれたかもしれない。
僕は部屋のカーテンを開けてみた。朝日のまぶしさをこの部屋で感じるのは何年振りだろうか。窓を開けると少し冷たい風が吹き込んでくる。ベッドに座り、机の上にあるアメの写真を眺めた。この過去を背負って生きていくのだと言うこと。それが、僕が生きるということとほぼ同義であることを受け入れるよりほかない。
携帯通信端末が鳴っている。僕は少し寝てしまったらしい。着信を見てみると高地からだ。
『星崎、お前の謹慎処分は明日までだ。明後日から来ていいぞ。お前にしてはおとなしくしていたじゃないか。やればできるんだから、今後はしっかり俺の言うことを聞け』
「高地さん。今回は本当にすみませんでした。いろいろ迷惑をかけました」
『まあ、気にすんなよ。ああ、そうだ、それでお願いなんだが、明日、ティエラを外に連れ出してやってくれないか?ティエラはずっとスリープ状態だっただろう?石上が言うにはリハビリが必要らしいんだ。ティエラにはまだそのこと言ってないから、お前から言っておいてくれ。あ、じゃちょっとあれだ、切るぞ』
唐突に通信が切れてしまった。妙に焦っていた高地の口調からは何か裏を感じる。彼との付き合いも伊達じゃない。明日、ティエラを外に連れ出すとはどういう事なのだろうか。そもそもアンドロイドがリハビリなんてする話を聞いたことがない。しかもなぜ僕から言わなければいけないのかも疑問だった。それはつまり整備課の仕事だろう。時計を見ると午後の3時。石上の携帯通信端末に連絡を入れたが、応答がなかった。
「しょうがない、整備課へ行ってみるとするか」
時間の使い方というものを僕はあまり良く知らない。仕事以外に何か趣味があるわけでもないし、友人だって多い方じゃない。だから持て余した時間と言うのが僕は苦手だ。海を見たり、空を眺めたり、昔はそういう時間も好きだったけど、なんだか最近はそんな暇さえなかったから。だから用事があると言うのは悪い気がしなかった。
僕は一度、機動捜査課の自分のデスクにもどり、パソコンを起動してメールの受信ボックスを確認した。休みの間に大量のメールがたまっている。ややうんざりしていると、背後から高地の声がした。
「おお、星崎。ティエラなら整備課にいるぞ」
何故か、にやにやしている。やはり裏がある。
「みんなはどうしたんですか?」
「ほれ、例の盗難機体、まだ見つかってないんだよ。みんな捜査、俺は留守番」
「暇そうですね。で、リハビリって何のことですか?」
「暇じゃねぇよ。ああ、リハビリ。それはあのそれだな。石上に聞いてくれ」
「なんすかそれ」
僕は受信メールに適用な返信を送り、パソコンをシャットダウンした。そして、自分のオフィスを出て、整備課に向かった。ティエラはもう何も問題なく稼働しているようだ。
「あれ、石上さんは?」
「外にでてる。優樹はどうしたの?」
石上もいないのでは、リハビリが何のことなのか全くわからない。
「あいつが外で用事とかあまり聞いたこと無いんだけどなぁ。コンビニでも行ったのか……」
僕は独り言のようにつぶやくとティエラに向き直った。
「ティエラ、高地さんから何か聞いてないか?」
「なにも聞いてないよ」
ティエラは首をかしげている。
「あれ、おかしいな。ティエラはずっとスリープ状態だったろう?だからリハビリも兼ねて、明日どこかに連れて行ってほしいって頼まれたんだよ」
「リハビリ?わたしにはリハビリは必要ないよ。アンドロイドの筋力は低下することが無いの。ずっと寝ていたとしても」
「あ、そうなの?」
冷静に考えてみればティエラの言う通りだ。アンドロイドには忘れるというような機能がそもそも組み込まれていない。スリープ状態だろうが何だろうが、一度経験し、身に着けた振る舞いや行動スタイルは、その後も保持し続けることが可能だ。
「そっか。じゃ、まあリハビリじゃなくて、俺とどこか行くか、明日」
この時、僕は自分で自分の言っていることの意味がよくわからなかった。まるでデートの誘いのような言葉を発したのだな、という理解はその数秒後にやってくる。
「うん、わかった」
「へ?分かったって。仕事じゃないぞ?」
「優樹となら大丈夫」
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