[2]
《フィリス》がバスを降りる。バス停の近くに建つ大学病院に向かう。天羽もバス停の手前でタクシーを降りる。《フィリス》は正面口から病院に入る。天羽は病院に入らず、地下の駐車場に向かった。駐車場の一角の暗がりに黒のヴァンが駐車していた。
天羽は後部座席のドアを2回叩いた。さっと内側からドアが開き、暗がりの中でいくつものモニタが青い光を放っている。知った男の顔が1つ、モニタから離れた。ヘッドホンを耳から外し、巨躯を揺らして低い笑い声が響かせた。
「久しぶりだな」
佐渡邦彦が座席から身を乗り出し、天羽の手を握って車内に引き入れた。柔道の有段者らしく凄まじい握力で掴み上げられ、天羽は思わず痛みに顔をしかめた。空いている席に腰を下ろし、モニタに眼をやる。リアルタイムで病院内の映像が流れている。
「配置は?」
「病院の表と裏にバイクが1台ずつ。警備員に化けたのが正面口に張りつけてある。看護師と医師に化けたのが、対象の近くに。いまモニタに写ってるのは、そいつらが持ってる隠しカメラからの映像」
佐渡は公安総務課で作業班の主任を務めている。作業班は都会や郊外の闇に溶け込み、見えない網を張ってひたすら《獲物》を待つ。作業班が狙う《獲物》とは、海外の情報機関などに取り込まれて諜報技術を身に付けたエージェントや、それを運用する高いレベルの訓練を受けたスパイたちである。
「《フィリス》の現在位置は?」
「3階の小児科病棟」
佐渡が雑誌を手渡した。
折り紙の専門誌だった。付箋が貼ってある個所を開いた。記事に添えられた写真にたくさんの縫いぐるみが飾られたベッドの上で、子どもが作品を手に取っている。
「それが《フィリス》のガキだ。白血病で入院してる」佐渡が言った。
子どもは緊張しているのか、顔にややすました表情を浮かべている。両親がベッドの両側で腰を屈めるようにしてのぞき込んでいる。小さな記事は「病気に負けず、これからも大好きな折り紙を続けて下さい」という言葉で結ばれていた。
「子どもの病状は?」
「主治医の話では、もう先は長くないらしい」
天羽は自ら非情に思いつつも、《フィリス》が暴力団や黒社会につけ込まれるスキは大有りだと納得した。雑誌を佐渡に返して言った。
「接触は?」
「まだない。気長に待つさ」
佐渡は眉間に皺を寄せ、不味そうにタバコを吸いながらモニタを睨んでいる。モニタの傍に置かれた灰皿がすでに吸殻で一杯だった。食事を摂らずにずっとこの荷台に潜んでいたのだろう。視察体制を取っている間、佐渡は食欲という感覚を忘れてマシンのように動き続ける。それでこの巨体が維持できるのか。天羽にはいつも不思議だった。
「捜査対象をもう1人、増やしてもいいか?」天羽は言った。
佐渡がモニタから眼を向ける。
「誰だ?」
「新潟県警の公安から本庁に異動してきたキャリア。ここ3年の間で異動してきた人物をリストアップしてほしい」
「そんな奴、ゴマンといるぜ」佐渡はため息まじりに言った。「貫井さんに聞いた方が手っ取り早いぜ」
「いや、貫井さんの耳には入れたくない」
佐渡はしげしげと天羽の顔を見た。
「へぇ・・・キャリア同士の権謀術数には関わりたくないってか」
夕陽が沈む頃、《フィリス》が病院の正面口から出て来る姿が映し出された。数歩後ろに、眼を赤く泣きはらした女性が歩いている。2人は病院から数キロ離れた公園の近くにある木造の一軒家に帰るのだろう。佐渡がモニタに映る女の姿を差して「あれが《フィリス》の奥さんだ」と言った。
「後を頼む」
天羽はヴァンを出ようとした。佐渡が天羽の背中に声をかけた。
「《エホバ》から連絡があったぜ。《先生》に繋いでくれってな」
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