[12]

 この日の夜、天羽は稲荷町の交差点でタクシーを降りた。

 上野パレスホテルは、清州橋通りの近くに五階建てのビルを構えていた。一フロアの客室数は5つ。貫井が経営者と知り合いらしく、たまたま空いていた4階の五部屋を全て借り切ることができたのだという。

 山辺は403号室に入れられていた。部屋の前の廊下で、大河原がフロントから借りた椅子に座っていた。天羽の姿を見るなり、さっと立ち上がった。

「山辺の様子は?」天羽が言った。

「気楽なもんです。競馬新聞を読んで、テレビを見るぐらいで」

「どこかに電話をかけたりは?」

「してません」

「藤岡は?」

「休憩中です」

 天羽が部屋に入る。山辺はシングルベッドに横になっていた。ネクタイを緩め、靴下も脱いでいる。表情をくつろがせてコーヒーを口に運びながら、テレビを見ていた。天羽はリモコンを手に取り、テレビの音量を上げた。山辺が力ない視線を向ける。

「調書の請求理由を聞かれた際、継続捜査班の川村に、安斎瑤子の話はしたんですか?」

「男と同棲しているらしい、という程度に」

「男が中国系のカジノで働いてるとか」

「何も。神父が中国人だということは話しましたが」

「安斎瑤子の人相・特徴を教えたんじゃないですか?」

「30歳ぐらいの美人だと」

「住所は?」

「教えませんよ」

 山辺は眉をひそめる。天羽の頭の悪さを指摘する口ぶりになった。

「住所不定と書いちゃってますから。そうでしょう?」

「教会には信者の住所録があります。川村はその点を突いてこなかったんですか?」

「川村は何も聞きませんでした。そもそも、さして関心が無い様子で」

 山辺はタバコを吸いだした。うまそうに吐き出された煙の行方を、天羽はぼんやりと視線で追い、頭では思考に集中した。山辺が新潟県警の川村に与えたのは、わずかな情報である。川村がさして関心を示さなかったのもうなづける。

 しかし、その情報が漏れたとしたら。例えば川村と同じ時刻、同じ部屋に10人いたら、眼が20、耳が20、口が10ある。その10人からまた漏れていく。そして、どこかで反応があった。中国人の神父が、狙撃事件のあったスナックから失踪したカトリックの中国人ホステスと結びついた。とりもなおさず、狙撃事件の犯人へ。

「15日の夜に川村から連絡があった。事件発生は19日。その4日間に川村、もしくは県警から再度の問い合わせは無かったんですか?」

「ありません」

 天羽はふいに質問を出発点に戻した。

「昨夜、牛込署から名刺に関する問い合わせがあった時点で、なぜファイルの存在を報告しなかったんですか?」

「ですから」

「3人殺されたんです」天羽は気持ちを奮い立たせて、低い声を出してさえぎった。「お互い様だとか、ゲームだとかという話は無しにしてください」

「3人?」山辺は上体を持ち上げた。

「有明の10号地埠に、白の乗用車が沈んでいるのが見つかりました。車の中から呉徳聖の遺体が」

 山辺の視線が泳いだ。しばし宙をさ迷った。

「もう一度、言います。昨夜、牛込署から名刺に関する問い合わせがあった時点で、なぜファイルの存在を報告しなかったんですか?」

「安斎夫妻が殺されたと聞いて、動揺してしまったのです」

「それなら分かります。素直に話して下さい」

「私たちの知らない何かが、起きたんですよ」

「安斎瑤子は3年前、銃撃事件があったスナックのホステスだった可能性がある。事件があった後、そのホステスは事件の犯人である男と一緒に姿を消して行方不明でした。名前は変えたが、事件の犯人である男とそれを助けた女の住所を知ってた呉が殺されたことがどういう意味か、分かってますか?」

 山辺の瞳孔が開き、その灰色がかった眼に脅えが走った。動揺を悟られまいとしてか、山辺は顎を上げ、上体をそらして天井を見上げた。おそらく富久町の事件に関して、自分がどんな役割を果たしたのか、今でも正確には理解できていないのだろう。しかし、その役割を担った疑惑については、安斎夫妻の殺害を知った直後から抱いていたはずだ。

 山辺の声が震えていた。

「報告が遅れたことを内密にしてもらえますか」

「人事考課には、ということですね」

「約束してください」

 天羽は自分にそんな権限があるのかと訝りつつ、「善処します」と答えていた。

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