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 数か月後、天羽は公安部が監視拠点に使っている都内の雑居ビルに呼び出された。窓がひとつもない暗い部屋で、天羽はパイプ椅子に座らされた。正面のデスクライトごしに映るのは外事二課の管理官だった。

「君は平壌から来日した使節団の監視任務についてたな?」

「ええ」

「使節団について、何か知ってることがあれば全て話せ」

 天羽には訳が分からなかった。思わず「何の話ですか?」と言い返していた。

「監視状況については、全て報告書に記載したはずです」

「廖美范は亡命した」管理官は低い声で言った。「亡命先で廖が自分は正真正銘、平壌のスパイだと告白した。言ってる意味は分かるな?」

 管理官の話はこうだった。

 廖は北朝鮮に帰国する途中、トランジットで中国に立ち寄った際に相互監視の眼を振り切って姿を消した。3週間あまり経った頃、廖は突如としてマレーシアの日本大使館に現れた。大使館員に韓国への亡命を申請したという。その後に警察庁が密かに行った事情聴取デブリで、廖は自分が朝鮮労働党の対外情報調査部の工作員であることを認めた。日本の朝鮮総連に過去2年間赴任した際、極秘任務を関わっていたことを告白したという。

「君が提出した使節団の監視報告は内容に遺漏は無いのかね?」管理官は言った。

 あの日の夜、自分たちの行為は誰かに見られていたのだ。そのことに思い至らなかった自分はどうかしていたのだろうか。天羽は強弁した。

「報告書に書いたことが全てです。それ以下も、それ以上もありません」

 管理官はその後も似たような質問を繰り返したが、天羽は黙った。我ながら子どもっぽい抵抗だと思った。聴取の終わりに、管理官は自分の名刺を手渡した。

「廖の証言によっては、君にも何らかの調査が入るだろう。君の方から警察を辞めざるを得なくなるかもしれない。もし辞める前に何か言いたいことがあれば、いつでも電話をかけてくれたまえ」

 天羽は部屋を出て行った。管理官の名刺は破って自販機の空き缶箱に投げ捨てた。

 8月の終わり頃、天羽は富川と一緒にマレーシアに向かった。防衛省の資料を中華系の貿易商に流していたという海上自衛隊員が逮捕された。当該の貿易商は外事二課もマークしていた人物だったが、すでに出国していた。その貿易商がクアラルンプールに潜伏しているという情報提供があり、天羽たちが出向くことになった。

 クアラルンプールの中華街に貿易商が営む会社も家もあるということだった。会社や家の前に張り込みしたり、衣料から生鮮食品まで扱うセントラルマーケットを汗と埃にまみれて歩き回ったり、天羽たちは何日も貿易商の姿を探した。夜は安普請のホテルで蚊やダニと戦いながら身体を休めた。

 ある夜、天羽は安物のベッドに寝ている富川を後目に、ホテルを抜け出した。夜道を独り歩いて日本大使館に出向いた。大使館が入っているビルを外から見上げた。明かりが付いている窓がある。あの窓のどこかに廖がいる。天羽はそう思った。今は何もできない自分の無力さを呪い、しばらくその場に佇んでいた。

 捜査に進展は無かった。市役所にも出向いて調べたが、貿易商の消息は不明だった。現地に滞在してから1週間経った日の朝、富川が告げたある報せに、天羽は胸奥で精神の均衡が崩れるのを感じた。

 廖は韓国への亡命直前、マレーシアの病院で睡眠剤を大量に摂取して自殺した。後に判明した話では、廖は警察庁のデブリが終えた頃から精神的に不安定になり、精神科で加療中だったという。

 それでも天羽は自分自身を許すことが出来なかった。自律神経が狂い出して不眠や集中力の欠如が著しくなった。貿易商は見つからず、マレーシアから失意のまま帰国した後に辞表を提出した。だが、その辞表は貫井に収められた。その後は公安総務課の庶務係に季節外れの異動となった。

 天羽は深川署の地下にある遺体安置室を出る。自分はもう違う。こんな状態は最後だ。今からは元の天羽聖治だ。自分自身を叱咤しながら歩き続けた。そうでなければ、ぼくは自分がもっと嫌いになる。

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