[10]
天羽は薄暗いスタンドの明かりが沁みるバーでスコッチを数杯飲んだ。スコッチ漬けの頭でバーカウンターの上に置かれたグラスをぼんやりと眺める。気配で客がバーに入ってきたのを感じて顔を上げる。天羽の隣のストールに腰かけた人物がバーテンダーに話しかけた。
「ウォッカのオン・ザ・ロックを」
聞き覚えのある声だった。天羽は隣の席に顔を向ける。
「あら、またお会いしましたね」
「えーと・・・」
「廖です」
「そう、廖さんでしたね」天羽は韓国語で言った。「ぼくは・・・」
「天羽さんですよね。美しい名前ね」
天羽は赤面した。廖の前にウォッカの入ったグラスが置かれた。
「あなたが持ってるネクタイで、それがいちばん良い物なの?」
廖は天羽のネクタイを指して笑った。ネクタイは妹から誕生日プレゼントとして貰った物で、けばけばしい黄緑色をしていた。天羽はまごつきながら答えた。
「ぼくは変わったネクタイが好きなんだ」
「あなたの韓国語、きれいな発音だわ。どこで習ったの?」
天羽は本当のことを話した。
「昔、イギリスに留学してた時期があって・・・下宿先のアパートの大家が韓国人のお婆さんでしてね。英語がしゃべれなかったんです。それでなんとなく拙い韓国語で話してる内に、覚えてしまったんです」
「イギリスのどこへ?」
「ケンブリッジです」
「学生の頃から海外に行けるなんて、うらやましいわ。私が海外に行けるようになったのはつい最近のことよ」
天羽はひそやかに一息ついてから言った。
「結婚してるんですか?」
廖は小さくうなづいた。ウォッカが入ったグラスを揺する。
「あなたは?」
「ぼくはまだまだ・・・」天羽は頭を振った。「妹が独り立ちするまでは」
「妹さんはおいくつ?」
「やっと大学生になったばかりです」
「あたしにも、歳の離れた妹がいるわ。でも、最近は顔を合わせてなくて・・・」
「へえ」
廖はバーカウンターを見つめたまま言った。
「私、あなたのネクタイが気に入ったわ。もう退屈してるんでしょう。そうじゃない?」
天羽は再びまごついた。この女性に魅かれこそすれ、退屈などしていなかった。
「ここを出ない?」
天羽はうなづいた。
2人はホテルを出る。夜風が心地よく頬をなでる。街灯の光に廖の瞳は際立った。廖は手を天羽の右腕に巻きつけて目黒通りを歩き出した。暗い路地を歩いている間、2人は無言だった。時間が経つにつれて、夜風が強くなる。信号が青に変わる度、横断歩道に人が溢れ出してくる。廖は横断歩道の途中でいきなり立ち止まった。かなり酔っている。
「ねえ」廖が囁いた。ひときわ甘い囁きだった。「・・・誘わないの?」
「ぼくは奥手なんだ」
廖の手が伸びてくる。天羽の襟首をぐいと掴む。
「わたしって魅力ない?」
天羽はまごついた。不意に、廖は天羽の襟首を掴んだまま背伸びをした。ハイヒールの踵が浮いて2人の唇が触れる。自分がさっきまで寄せては引いた甘い匂いの中に浸かっている。天羽はそう思った。
廖はこんな風に、誰とでもキスする女だ。
スパイだ。平気で嘘を吐くだろう。罪の意識を持たずに男を騙す。天羽はとっさに廖の髪に手を滑り込ませた。愚かなマネをしている自分自身にまずは驚いた。人の流れを堰き止めるようにして、2人で棒立ちになることの心地よさと切なさが胸に迫った。思わず指先に力を込める。
数秒がとても長く感じられた。
このまま手を離さないでいたらどうなるだろう。こうしていれば、自分も廖のように生きていけるだろうか。天羽がそう思った瞬間、廖は唇と手を同時に離してよろめくように身を翻した。
逃がすまい。天羽はそう思った。さらに髪を強く握る。捕まえたつもりだったが握った拳の間を短めの黒髪がすり抜けた。廖は点滅を始めた青信号に向かって走り出す。酔っているとは思えない足取りだった。
信号が赤に変わった。動き出そうとする車のクラクションが一斉に鳴り響き、運転手から怒号を浴びせられる。天羽は慌てて横断歩道を渡った。今の自分はかなり間抜けな顔をしているに違いない。天羽はそう思った。
廖が華やかで無邪気な笑みを浮かべていた。
翌日、使節団は帰国した。
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