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天羽は深川署の死体安置所にいた。呉徳聖の遺体を確認するためだった。
手術台の上に横たわった遺体は鼻孔と口から白い泡沫液を溢れさせ、すでに体内の腐敗ガスの圧力で眼球が飛び出しかけていた。生前の顔貌はかろうじて見分けられた。
「お探しの人物ですか」深川署の捜査員が声をかけた。
「ええ」天羽はうなづいた。「どういう状況で見つかったんですか?」
捜査員によると、遺体を発見したのは民放テレビ局の報道部だという。取材のためにたまたま有明四丁目の10号地埠頭西岸から潜水夫を潜らせていた時、海底に沈んでいる白の乗用車が見つかり、車内に遺体があったということだった。
いったい自分はどうしたのか。富久町の現場。深川の水死体。ただ自動的に身体が動くだけで、自分が何かしら立ち止まっているように思える。刹那、あの時と同じだと思った。天羽はぼんやりと2年前のことを思い返していた。
日本の民間団体が人権問題に関する国際セミナーを都内で開催することになった。警視庁公安部内でこのセミナーが問題になったのは開催の5日前、警察庁が韓国の国家情報院からの通報で、北朝鮮から使節団が来日するという情報提供を受けたためだった。
当時、外事二課で東アジア情報担当に在籍していた天羽が急きょ、北朝鮮使節団専属の通訳としてセミナーに送り込まれることになった。韓国語に不自由しない天羽に与えられた任務は日本滞在中の使節団の動向を逐一、監視すること。
成田空港のロビーで、天羽は北朝鮮の使節団三名を出迎えた。黒スーツ姿の男2人に両側を守られるような感じで、濃紺のジャケットとスカートを身につけた女性が言った。
「
少し低めの艶のある声。なめらかな日本語だったが、外国人が話すアクセントが微妙に感じられた。天羽が驚いたことに、廖が使節団の副団長だった。
セミナーの日程は5日間だった。その間、使節団はセミナーの会場でもある清正公前のホテルに宿泊した。外事二課の監視班がこのホテルを事前に調査したところ、広さの割に視察や行動確認(行確)にはさほど困難を伴わない対象だった。
ホテルは17階建ての本館のみ。玄関を入ってすぐにフロントがある。フロントから通路を左に曲がれば、セミナー会場である大会議場。フロントから通路を右に曲がれば、客室につながるエレベーターが三基ある。ホテルの宿泊客が三基のエレベーターを使うには、フロントの前を必ず通らなければならない。外事二課の監視班はフロント前に並べられた四つのソファを陣取り、人の流れを全て把握していた。
使節団をエレベーターまで見送った後、天羽はフロントに戻った。ソファの1つに見知った顔を見つけた。赤いタンクトップ姿で肌を露出した女の肩に手を回した男がいる。黒いシャツが胸まではだけ、金色のネックレスをぶら下げている。
《場違いな擬装だな》
天羽は苦笑を浮かべる。愛人を連れた中小企業の経営者か、女を商売の糧にするいかがわしい店のオーナーといった感じだ。宿泊客たちも視線を避けている。天羽はソファに腰かけ、男の背後から低い声をかけた。
「最近は愛人を連れてお仕事するんですか?」
愛人を装っている女も外事二課の監視要員であることは分かっていた。突然、声をかけたにも関わらず、貫井は驚いた様子もなく答えた。
「君こそ、リクルートスーツとは味気ないな。まるで就活生みたいだ。ネクタイぐらいはオシャレしたらどうかね?」
「善処します」
天羽はエレベーターに眼を向けたまま、貫井と話を続けた。
「使節団の人定はどうなりましたか?」
「参加者リストにあった使節団三名の氏名は外二のデータベースになかった」
「来日時、成田空港で顔写真を撮ったはずです。そちらは?」
「
人定が不発に終わるのではないか。天羽が漠然と感じた不安は的中した。
使節団は全員が新顔だった。それでも上級官庁である警察庁への義理立てで監視作業は続けられた。セミナーの期間中、使節団は東京見物にも行かず、5日間とも部屋と会場を往復するだけだった。無駄な線を追っていると感じ始めた途端、監視班に苛立ちや諦めが蔓延するのを感じた。
5日目の夜、天羽はホテルにあるバーで飲むことにした。今から思い返せば、柄にでも無いことをしたのだ。
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