第1部:復帰

[1]

「お客さん、このへんですか」

 天羽聖治は運転手の声で目覚め、眠気をこらえて薄目を開けた。現場の近くまで車で進入できるはずだったが、路地の入口に立入り禁止のロープが張られていた。天羽は料金を支払ってタクシーから降りて、新宿区富久町の路地に立った。

 刺すような冷気をはらんだ晩秋の雨が強くなったり弱くなったりしていた。ここ数日、前線を頭の上に載せているような天気だ。昨日までの大雨で、ジャケットも替えのスラックスも全部濡らしてしまった。今はチノパンとセーターの上に黒のコートを着込んでいた。足元はスニーカー。その恰好を見た妹のゆかりから「研究室にいる冴えない院生みたいよ」と笑われた。

 天羽は傘を開いて走り出した。現場はタクシーを降りた場所からさらに10メートルほど入った4階建てのアパートだった。

 周囲は制服警官や腕章をつけた刑事たちがうろうろしていたが、誰も天羽の姿に気を留めなかった。公安総務課の庶務係である天羽の顔は、本庁はおろか、公安部内でも最も知られていない顔のひとつだった。

 303号室に入る。貫井悦士が部屋で独り待っていた。ボタンを襟元まできっちりとめた濃紺のコート姿はその端正な顔立ちを合わせ、まるでファッション誌のモデルのようだった。上品に髪を整え、かすかにオーデコロンが香る。男盛りの40歳で、公安部参事官。階級は警視正。

「非番のところ、すまなかったな」

 貫井が右手を差し出してきたので、天羽は思わず軽く握り返した。無残に破壊された室内の様子に眼をみはった。

「ここで、いったい何が・・・?」

「犯人たちがサブマシンガンで掃射したんだ」

 貫井は手をひと振りした。

「概略を説明しよう。まずは目撃証言。205号室に住む64歳の女性が事件発生の直前、アパートの入口で階段に上がる男2、3人を見ている。年齢、人相特徴については覚えてないそうだ」

 天羽は慌てて手帳を開き、メモを取り始めた。

「この部屋の住人は、安斎英道と瑤子の夫妻。まぁ偽名だろう」

「偽名?」

「後で分かる」

 貫井は話を続けた。

「夫婦がこの部屋を借り始めたのは2か月くらい前。安斎英道は40歳前後。歌舞伎町のクラブの従業員。そこで、通訳をしてる。瑤子は30歳ぐらい。仕事はしてなかったようだ。昨夜、英道の帰宅が午前2時半ごろ。最初の銃声がその約10分後だから、犯人たちは英道の帰宅を待って襲撃したと思われる」

 貫井はリビングに入り、破壊された食器棚を指で示した。

「捜査員の見方では、男の1人が被害者の顔見知りを装ってドアを開けさせ、サブマシンガンで安斎瑤子を殺害した」

 木屑や食器片に混じって、リビングの床に血が飛び散っている。すでに黒ずんだ血が点在する床に死体の輪郭がチョークで示してある。ドアの近くで撃たれたとすると、安斎瑤子は2メートルほど後ろに吹き飛ばされたことになる。

「男ひとりがここで倒れてた」貫井はドアを入ってすぐ左のチョークの跡を示した。「腹に2発食らってる。着てたコートのポケットに、サブマシンガンの予備の弾倉がひとつ。手、顎、衣服からは硝煙反応がたっぷり。つまり、この男が瑤子を撃ったと見て間違いないだろう」

「男の素性は?」

「東洋人だという以外は。身分を証明するような物は何も持っていない。データベースに顔照合をさせるがヒットするかどうか」

「この男を撃ったのは?」

「安斎英道。使用したのはグロック」

 貫井は部屋の奥に進んだ。リビングの隣にある和室に入る。

「安斎は男と応戦した後、そこの窓から飛び出した。その際、グロックを地面に落としたようだ。下の路上で発見されてる。硝煙反応あり。英道の指紋も出ている」

 東に面した窓ガラスは全て砕け散っている。2人は窓辺に寄り、路地を見下ろした。階下のベランダの手すりが壊れている。

「英道は運よく203号室のベランダに引っかかり、窓を割って部屋に侵入した。203号室にゲソ痕(足跡)が残ってる。部屋から廊下に逃げ出して、アパートを出た」

「安斎英道は生きてるんですか?」

 貫井は首を横に振った。

「現場近くの路上で背中から1発受けた。とどめに、眉間にもう1発」

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