プロローグ
「昨日の夜、新宿の富久町であったコロシ、知ってるか?」
「富久町の?」
「そう。アパートで、マシンガンで女を吹き飛ばされたんだよ」
「マシンガン?ずいぶんと物騒じゃないか」
「だろう?女は即死。女と同棲してた男は部屋から出れたんだけど、近くの路上でズドンと眉間に1発」
「まるで、見せしめだな」
山辺紀介は長距離通勤で疲労した体を労わるように、朝のざわついた麻布署のフロアをのろのろと歩いていた。自分が今抱えている案件は頭からすっぽりと抜け落ちて、何か重大な過ちを犯したかもしれないという不安に脅えていた。
まずはお茶を飲もう。そう思った。気持ちを落ち着かせて詳細に検討すれば、事態はそれほど案ずるほどのものではないことが分かるはずだ。
更衣室に入る。話をしていた同僚2人が目礼した。山辺が顎をわずかに引いて挨拶した。2人は雑談に戻った。同僚の気配を背後に感じながら、自分のロッカーの前に立つ。コートから鍵をつかみ出したところで、山辺の視線はとまった。
ドアがわずかに開いている。鍵をかけるのを忘れたのか。袖口のすり減ったコートを脱ぎかけて、「違う」と思わず呟いた。カンヌキの鉄片が内側へねじ曲がり、ドアの縁の二か所が潰れて塗料が剥げ落ちている。バールのようなものでこじ開けたのだ。ドアをいったん閉めて名札を確認する。俺のロッカー。
ドアをばたんと開いた。上の棚を見る。山辺はかっと眼を見開いた。青いビニール表紙のファイルがない。空っぽの棚に手を突っ込んで手探りする。顔中の毛穴がいっせいに開き、汗が噴き出してきた。
震える手でコートをロッカーに収めた。本庁の仕業に違いない。数時間前の電話で肝心な点をほかして言ったのが、バレたのだ。短く息を吐き、焦る自分を諌めた。あのファイルから何が暴露されて、何が暴露されないか。山辺は目まぐるしく頭を働かせた。
天井をきっと睨みあげた。とにかく署内でおおっぴらに窃盗とは許しがたい。お茶をいれるために給湯室へ足を向けたところで、男と鉢合わせになった。
「山辺警部補、ですね」
30歳前後の見知らぬ男が抑制された声を発した。すらりとした長身だが、不思議と現場の匂いが感じられない。地味な眼鼻立ちに、黒縁の眼鏡が映える。銀行員か大学教授のような身なりだった。譬えは悪いが、この辺りのクラブでぼったくられて痛い目を見る地方出身者というのが、山辺の正直な第一印象だった。
「あんたは?」山辺は聞いた。
「警視庁公安部の天羽と言います。ご同行願います」
事情が飲み込めなかった。ジャンキーの娘を脅して寝たのは20年近く前の話だ。情報収集と称して、ヤクの密売人の元締めが経営する店で軽く一杯やり、女の胸を触る程度のことだ。公安部の対象になるはずがない。
「今から会議だ」山辺は手で邪険に追い払う仕草をした。「後にしてくれ」
「あなたの上司には話をつけてあります」
背後から肩を掴まれた。山辺は首を回して、やはり見知らぬ2人のばかでかい男を見上げた。本能が警告を発した瞬間、天羽の手が山辺の胸を押した。
山辺は後ろによろけると、左右から腕を抱えられた。腕の力に敵意を感じた。天羽が両腕を抱えた男たちに「連れていけ」と眼で命じる。
署員の誰にも気づかれずに裏口に出る。山辺は近くの路上に停められたヴァンの後部座席に押し込まれた。全ての窓を遮光フィルムで覆われ、運転席も壁で仕切られている。腰の下で車が震え出すのを感じる。途端に新たな恐怖がわき、背骨の溝にそって冷たい汗が流れ出した。
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