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 天羽は女性捜査員1人連れて、荻窪の居酒屋「とりひさ」に入った。時刻は午後6時半。店員に案内されて、天羽たちはテーブルに着いた。店内にすでに配置された作業班の捜査員から、天羽たちに「特異動向ナシ」と合図を送ってきた。

 天羽のイヤホンに佐渡から無線が入る。《フィリス》が『点検』を始めたという。佐渡はJR荻窪駅北口の周辺を一般車に紛れて回遊するヴァンの車中で、《フィリス》を尾行中の捜査員から状況報告を受けている。

「接触相手から警告を受けたのかも」

 天羽は運ばれてきたビールを飲むフリをしながら、スーツの袖口に仕込んだマイクに答えた。

《なら、今日の接触は中止か?どうする?》

 何かが起こる。天羽は「予定通り店には来てくれ」とマイクに吹き込む。女性捜査員に断り、天羽は店て思考を進める。《フィリス》が動けば、秘密を守ってきた者たちが動く。天羽は携帯端末を取り出してある番号に電話をかける。勝手に手が動いているような感覚だった。

《はい》

 数回のコールで相手が出た。

「夜分、失礼します。3年前、新潟から始まった一連の事件についてです」

《・・・》

「あなたのご判断で、適当に関係者に一声かけて下さいませんか?」

《・・・》

 相手の反応は無かった。天羽は「お願いします」と言い残して通話を切る。声音とは裏腹に、神経は高ぶっていた。何かが起こる予感がする。天羽は店内に戻った。

《フィリス》が接触相手とともに、店に姿を現したのは午後8時ちょうどだった。店員に向かって接触相手が口を開いた。

「高村です。予約をとっています。あの席でいいですか?」

《フィリス》は天羽たちの席から7メートルほど離れた場所―窓際の柱の陰になっているボックス席に座った。天羽からは2人の姿がちょうど死角になっている。

「もう、待ってたんですから。早く」女性捜査員が言った。

 天羽が顔を上げる。《フィリス》たちから少し遅れて、佐渡が店に入って来た。

「すまん、すまん」

 佐渡は天羽の向かいの席に座り、女性捜査員に小声で指示した。

「お客さんが何か渡そうとした瞬間に合図をくれ」

 やがて店内は作業班の面々で埋めつくされた。資料を手交する瞬間をじりじりと待つ。《フィリス》は低い声で何かを話している。天羽は腕時計に眼を落とす。時刻は午後9時16分。

 その時、女性捜査員が佐渡のスーツの袖口を引っ張った。《フィリス》を一瞥した佐渡はさっと立ち上がり、柱の向こうに駆け出した。《フィリス》の眼の前で立ち止まると同時に、大きく振りかぶった分厚い掌をテーブルに叩きつけた。

 バンという破裂音のような音が室内に響き渡った。

「はい、そのまま!そのまま!動くんじゃない!」

 残りの捜査員も一斉に、椅子を膝裏で跳ね除けるように立ち上がった。《フィリス》が座るテーブルに人垣ができる。天羽もテーブルに歩み寄る。佐渡の汗ばんだ手がテーブルに置かれたA4判の茶封筒を強く押さえつけていた。2人に向けて、写真撮影担当のフラッシュが3回焚かれる。天羽は《フィリス》に声をかける。

「藤岡郁夫巡査、ですね?」

 藤岡がうなづいた。

「私たちは警視庁の者です。これから本部の方に一緒に来ていただきたい」

 佐渡が藤岡の接触相手である高村紘一に有無を言わせぬ口調で言った。

「アンタも一緒に来てもらおうか」

「いったい何ですか?私は外交官です。ウィーン条約で保護されてるから、お断りする。行く必要はない」

 高村の口から飛び出してきたのは、流暢な韓国語だった。佐渡が韓国語で反論した。

「外交官なら身分証明書を呈示するんだ」

「それは無理です」

「では、カバンの中に入ってるものを見せろ」

「これは私の書類です。見せることはできません」

「今さら何を言うか!藤岡へ渡す金が入ってるんだろう!俺たちはずっとアンタらが乳繰り合ってるのを見てたんだぞ!」

 その瞬間、高村は眼を見開き、苦渋の表情を浮かべた。

「しまった!」

 天羽は思わず叫んだ。高村は白目を剥き、四肢を痙攣させて椅子から転げ落ちた。

「舌を噛んだぞ!」

「医者を呼べ!早く!」

 捜査員たちが男に取りつき、店内をいくつもの怒号が飛び交った。藤岡は座席で悄然としていた。感情が麻痺した顔だ。天羽はそう思った。

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