[14]
「やっと帰ってきた。今夜は定時だって、朝言ってたじゃない」
天羽は自宅のマンションに帰ってくるなり、妹のゆかりにそんなことを言われた。
「飲んできたの?」
「いや・・・」
「いつ帰ってくるか分からないから、ご飯用意してないけど」
大学3年生のゆかりは食卓に広げたパソコンや資料のそばに、ビスケットの箱を置いていた。レポートでも書いていたのか。聞けば、それが今夜の自分の夕食だという。兄がいない夜、こいつはいつもこんな感じで過ごしているのか。天羽は少し驚いたと同時に、故郷の福岡で暮らしている母親に申し訳なく思った。何かを言いかけた天羽をさえぎって、ゆかりが口を開いた。
「じゃあ外で何か食べに行かない?それとも妹と一緒じゃこまる?」
「いや・・・」
「疲れてる?」
天羽は首を横に振った。
「レポートの方はいいのか?」
「うん、じゃあ早く行こう。お寿司が食べたいわ、お寿司」
ゆかりは片手につまんでいたビスケットを放り出して、さっと黒い革のジャケットをはおった。そっけないというか。気遣い無用というか。天羽のような隠微な職業の男にはありがたい感じがした。
駅前の回転寿司屋に入った。瓶ビールを2人で飲みながら、寿司を食べた。妹の愚痴につき合いながら、天羽は上野の現場の場景を反芻していた。天羽が本庁に通報してから数分後、ホテルに捜査一課の管理官が来た。管理官は阪元と名乗った。いかにも若手のキャリアらしい阪元はスーツを着こなして、外見に隙がなかった。
「ここはもういいですから、田原町駅近くの小料理屋に行ってください」阪元が言った。「貫井さんが呼んでます」
取調を受けず調書も取られず、天羽は殺人事件の現場から解放された。
目黒の寿司屋を出た。午後11時を回っていた。天羽は腕を取られ、ゆかりに押し出されるようにマンションへ帰った。天羽はゆかりを見た。眼の縁がほんのりと赤く染まっている。ゆかりの体温を感じると、あのホテルで撃たれていたかもしれないと恐怖に似た感覚に今さら背筋が凍り、思わず身震いした。
阪元に言われた小料理屋の前に来る。黒のセダンと路地ですれ違った。天羽は何気なく運転手に眼を向ける。本庁ですれ違った顔のように思えた。赤いテールランプが消え去った後も、天羽は数秒その場に立ち止った。しかし、こういう時に限って、ついに思い出せなかった。
小料理屋では、貫井が奥の座敷で焼き魚の定食を箸でつついていた。
「君も何か食べるか?おごるが」
天羽は黙って首を横に振った。
数百メートルそばに現場があるというのに、平気で食事をする上司は事件よりも難物に思えた。こんな時だからこそ、この上司は食事をするのだと思い直した。だが、現実とのあまりの乖離に、天羽は苦笑を浮かべるしかなかった。天羽はいくつか判明した事実を貫井から聞かされた。密談にはもってこいの空間だった。
『向島一号』と安斎英道の指紋が一致したこと。山辺を狙撃した犯人については、すでに阪元から一報が入ってきていた。ホテルから30メートルほど離れたマンションの防犯カメラに、ゴルフのクラブケースを持った不審な男の姿が映っていた。管理会社に問い合わせたところ、マンションの住人ではないという。
「ヒットマンだろう。今ごろ空港から高飛びしてるころだ」
貫井に同意見だった。
「富久町と同じです」
「誰か洩らした奴がいる」
貫井の低い言葉に、天羽はうなづいた。
「ぼくもあなたも、対象に入ります」
山辺が上野のビジネスホテルに軟禁されていたことを知っている人物は数少ない。身内から対象として調査される恐怖。2年前の出来事が脳裏によみがえる。
「これからどうする?」
「山辺は昨日、宝町のホテルで新潟県警の継続捜査班の主任と会い、その主任に富久町のアパートについて教えたと証言しました。その主任について調査する必要があります」
貫井は冷ややかな口調で言った。
「新潟へ行くのなら、日帰りだぞ。最近は財布の紐が厳しいからな」
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