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土肥芳枝は2階建てのアパートの前で日課の掃き掃除をしていた。向かいの生花店で初老の夫婦が花を選んでいる。芳枝はその隣の不動産屋から出てくる男を何気なく見た。
男は眼の前の入谷商店街を横切ろうとした。鋭くクラクションが鳴らされる。白い乗用車が通過した。いったん足を止めた男は再び歩き出し、芳枝の方へ頭をめぐらした。若いのか老いているのか分からない顔つき。黒縁眼鏡をかけている。眼鏡の奥は思いつめた眼差しだった。
根拠は無かったが、不意に男が自分に向かってくると思った。芳枝は掃除の手を止めた。ゆっくりとした動作で、ちり取りと箒を持ったまま、アパートの脇にある鉄製の階段を上がった。2階に自室があった。背後から声をかけられた。
「新聞社の者なんですが」
芳枝は振り向いた。
「新聞はいらないわよ」
「いえ、そうじゃなく、取材なんです」
男は大手新聞社のロゴマークが入った手帳を示した。
「以前、このアパートの205号室に住んでいた寺門昌彦さんのことで」
「憶えてるわよ」芳枝は答えた。「何かあったの?」
「行方が分からなくなりましてね。それで調査しています」
「やっぱり、おかしいと思ってたのよね」
「おかしいとは?」
「奥さんが妙な人でね。気味が悪かったんです。本当に」
「奥さん、というのは?」
「寺門さんの奥さんです」
「お名前は?」
「たしか、多恵さん。あまり話したことはなかったけど、挨拶されると言葉の感じがちょっと日本人じゃない感じがしたわ」
「お二人はこのアパートに一緒に入ったのですか?」
芳枝は話し出した。
「いいえ。最初はご主人だけ部屋に入ってたの。1年ちょっと経った頃かしら、その時に奥さんを連れて挨拶に来たのよ」
「お二人のお仕事は?」
「ご主人はパチンコ店で働いてたわ。浅草の方のお店ね。奥さんはお水の関係だったと思うわ。夕方ごろに家を出て夜遅くに帰ってたようだから」
「寺門多恵さんというのはこの方ですか?」
芳枝は記者が手渡した顔写真を見る。
「そうね。こんな顔だったと思うわ。最近ちょっと記憶が曖昧なのよ」
「寺門さんがアパートを出て行かれたのはいつのことです?」
「アパートに来て2年くらい経った頃かしら」
「行き先に心当たりは?」
「ないわね。さっきも言ったけど、ご主人も奥さんもあまり近所づきあいがいい人ではなかったから」
記者は小さなメモ帳にボールペンを走らせた。
「ねえ、記者さん」芳枝が言った。「調査のためって言ってるけど、ホントは違うんじゃないの?寺門さん、何かやったんでしょ?もしかして殺し?」
「なぜ、そう思うんです?」
芳枝は急に声を潜めた。
「普通、あんなことします?だって、ご主人が単に出勤するだけですよ」
「あんなこと?」
「ご主人が出かける前に、あの奥さん、1階まで降りてくるのよ。その後、こんな風に辺りをキョロキョロ・・・」
芳枝が顔を左右に振った。
「変でしょ?それから上を向いて、階段の踊り場から顔を覗かせるご主人に向かって、こんな具合に大きく頷いちゃって・・・」
「他に、何か気になったことは?」
「私は特に何かされたって訳ではないんだけど、奥さんは変だし、ご主人の方もね。時どき眼つきが、あの眼が恐かったんです・・・」
記者は礼を言って芳枝に名刺を手渡した。アパートを立ち去る記者の後ろ姿を眼で追った後、芳枝は自室に戻った。玄関の靴箱の上にある電話に眼をやり、不意に記憶が脳裏から溢れ出すのを覚えた。
2週間ほど前に新宿のマンションで、夫婦がマシンガンで殺害される事件があった。テレビのニュースに被害者夫婦の写真が何度か挿入された。氏名は安斎英道と安斎瑤子。寺門の夫婦に似ている。芳枝は咄嗟にそう思った。だが、記憶はすぎに曖昧になってしまう。時間が経つにつれて、あの被害者が寺門だと断言する自信はなくなった。
殺害された夫婦が万が一、寺門夫婦なら記者に教えてあげるべきだ。そう自分に言い聞かせて、腰を上げた。電話を取り、名刺に書かれていた番号を押した。ガチャとノイズがあり、耳を「警視庁です」と男の低い声が突いた。芳枝は反射的に受話器を降ろした。
頭の中で情報が錯綜していた。何がどうなっているのか。さっぱり分からないまま、芳枝は恐怖に震えた。
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