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渋谷のファストフード店は混雑していた。天羽はすぐに店内に入らず、しばらく周辺を観察した。もし《エホバ》を監視している者がいるとすれば、警務部だろう。対象への行動確認を行う捜査員は天羽と同じ公安の出身者が多い。だが、見知った顔は雑踏に見当たらなかった。
やっと店内に足を向けた天羽はレジの長い列に並んでコーヒーだけを頼み、2階の喫煙エリアに入った。《エホバ》は窓ガラスから外の様子をしきりに気にしている。天羽が近づいていることに気づいているだろうが、肩を丸めたまま顔を向けようともしない。
天羽はいつものルール通り、背中を向けてちょうど真後ろのテーブルに座った。
「お久しぶりです、《先生》」
《エホバ》の本名は知らない。最初に渡された名刺には「帆場」とあり、その名前から連想して《エホバ》というコードネームを与えた。《エホバ》は天羽が本庁で持つ数少ない協力者の1人だった。組織犯罪対策部四課八係の主任で、階級は警部補。
帆場とは天羽が麻布署の地域課に勤務していた頃に初めて接触した。当時、帆場は福建マフィアの拳銃密輸に関する捜査に従事しており、麻布署の管内にある中国人のたまり場などを天羽に案内させた。
「安斎英道について、分かったことが。本命じゃないかと」
「時間がかかりましたね」
「ウチの課には、G資料さえも無いヤツだった。えっと、名前は・・・」
《エホバ》はジャンパーから出した手帳を開いた。
「向坂邦夫。半グレ集団の山手連合で成り上がったヤツでな。極声会の傘下の三次団体である高徳組。そこの若頭に拾われてる」
安斎英道こと向坂邦夫は極声会系高徳組の構成員。天羽はその情報を脳裏に入れて質問する。
「向坂は組の中でどんな役割を?」
「大したことはよく分かってない。カッとなりやすいタチだとは聞いた」
「なぜ、安斎は警察に逮捕されたんですか?」
「よく転がってる話だが、会の内部に武闘派がある。刺客の素質がある者を選んで、軽い実刑を喰らうよう指示する。刑務所で心身を鍛える」
《エホバ》の話は安斎の経緯と重なる部分が多い。天羽はそう思った。7年前に出所後、安斎を行動確認していた捜査員の証言、資料の行間から感じられた背後に何らかの組織が関与しているのではないかという筋読みにも符合する。
「安斎は栃木の刑務所に3年服役した後、韓国に出国してます」天羽は言った。「それも、会の指示だったということですか?」
「そこから少し、話が変わってくるんだが」
「どういうことです?」
「1年くらい前に覚醒剤の密輸で逮捕した極声会の幹部が小菅にいる。そいつに三年前に新潟で起きた狙撃事件について聞いた。《先生》が話した、国会議員の霜山が撃たれた事件だ。俺は単刀直入に、アンタら極声会が口封じでヒットマンを霜山に差し向けたんだろと言った。ところが、その幹部は『霜山を撃ったのは俺たちじゃない』と言い張った」
「あなたはその証言を信じたんですか?」
「その幹部は霜山を殺害する計画があったかもしれないが、詳しくは知らないと言った。その時、狙撃事件の後で会の内部で広まったある噂を話し出した。組の金を無断で持ち出して、韓国に女と一緒にふけた男がいる。そんな話だ。そいつが日本に帰ってきて霜山を撃った。男と韓国に一緒にふけた女は新潟のスナックに潜入して、男が霜山を撃つのを支援した」
「極声会は向坂に霜山の暗殺を命じてない。向坂は誰かに雇われて、霜山を撃ったということですか?」
「その噂話を信じるとすればだ」
「向坂の雇い主は?」
「その幹部は知らないと言った。半島か中国系のマフィアだろうと」
「韓国に一緒に逃げた女が安斎瑤子だった可能性がある」
「向坂は出所後に偽名を使って、浅草のパチンコ屋で働いてた。そうだろ?」
「ええ」
「パチンコ屋のオーナーが入谷に小さなアパートを持ってる。当たってみる価値があると思うが」
《エホバ》は立ち去り際にメモ用紙を1枚、天羽のコートのポケットに後ろ手にねじ込んだ。メモの中身はアパートの住所だろう。
「いつもながらバレたらこれだ」
《エホバ》は振り向きもせずに言った。首を切る真似をする姿が脳裏を過ぎる。
自分も危ない橋を渡っている天羽には、これで肝心の事件の真相に一歩近づいている予感はまるでなかった。むしろ一層、先が見えなくなってくる不安を新たにしただけだった。
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