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 天羽は警察庁からの報告を聞いた時、悪い予感が当たったような気がした。高村紘一の顔貌が異なると証言した康からは念のため、高村紘一の写真を受け取っていた。学習組が解散した直後に撮られた顔写真だった。その写真と防犯カメラの映像を警察庁の科学警察研究所に送り、顔貌形態学的鑑定を依頼した。

「科警研から鑑定結果が出た」天羽が言った。「2件の写真の人物は99・8%、別人であるという結論だ」

 最初に唸り声を上げたのは佐渡だった。それ以外の者はこの結果をどう受け止めればいいのか困惑しているように見えた。石川が天羽から答えを引き出そうして口を開いた。

「ということは・・・」

「入れ替わったんだ。10年前、学習組の解散で康の前から姿を消した男を《真正》の高村紘一とすれば、その後に入れ替わった者が我々の眼の前に姿を現した・・・」

「では、《真正》の高村紘一は今どこに?」平間が言った。

 佐渡が吐き捨てるように言った。

「分かりきったことだ。拉致して殺したんだよ、《平壌》の野郎どもが」

 暗い想像が目白の屋敷にいる公安捜査員たちの脳裏をよぎる。

 背乗り―。

 宝町のホテルで山辺が接触した人物は《真正》の高村紘一を殺害し、高村本人に入れ替わったスパイであり、非合法工作員イリーガル・スパイである可能性が出て来たということだった。イリーガル・スパイを眼の前にするのは、この屋敷にいる者なら誰でも初めてだろう。貫井でさえも経験が無いはずだ。天羽はそう思った。

 諜報インテリジェンスの世界では外交官等の合法的な肩書きで入国し、大使館員に身分偽装カバーした上で諜報活動を行う者を「リーガル・スパイ」とするが、偽造旅券を使って非合法に入国して活動するスパイを「イリーガル・スパイ」と呼ぶ。リーガル・スパイは大使館員等の身分があるため、たとえその国の治安機関に工作が暴露されても、外交特権で逮捕されることはない。だが、非合法に密入国するイリーガル・スパイは検挙された場合、必然的に極刑を受けることになる。

「最高のヤマだ」佐渡は低い声で言った。「本物のイリーガル・スパイを逮捕する絶好の機会だ。だがな、相手が最上級のプロフェッショナルだからと言って今までの尾行の失敗は言い訳にならんぞ。心してかかれ、いいな」

 イリーガル・スパイの運用はその性質上、リスクが極度に高い。何年もかけて、すり替わる人間の周辺環境を徹底的に調査した上で「背乗り候補」として認定し、最高水準に訓練されたスパイを送り込んでくる。

「今度、《フィリス》が男と接触するのは?」天羽が言った。

「4日後。場所は荻窪の居酒屋です」

 平間が答える。《フィリス》は昨夜も銀座のクラブで高村紘一と接触した。今回も《フィリス》は高村に何らかの情報を渡し、その見返りに現金を受け取った。クラブに入った尾行担当の捜査員がカバンに仕込んだ指向性マイクで、2人が約束を取り付ける会話を録音していた。

《次は荻窪の居酒屋で会いましょう。『とりひさ』という名前です》

 これが最後の接触になるだろう。天羽は漠然とそう思った。

 佐渡ら作業班と別れた後、天羽はタクシーで半蔵門のホテルに約束の時間に遅れて乗りつけた。宴会場に通じる観音開きの重たいドアを開けようとして手を伸ばした時、ドアが勝手に開いた。ドアマンが開けてくれたのである。シャンデリアの眩しい光が眼に刺さり、天羽は頭がくらくらする気分に襲われた。

 天羽は背の高いウェイターが掲げたトレイからワイングラスを受け取り、広い宴会場を見回した。招待客は二百名を優に超えているだろう。貫井の話では、防衛駐在官ミリタリーアタッシェの着任パーティだという。グラスを掌で遊ばせる客たちの笑い声があちこちで響いている。貫井は宴会場の中央に置かれた円卓でホスト役のフランス大使夫妻と話していた。天羽の姿に気づいた貫井はホストに断って離れ、強引に天羽の腕を取った。

「シングルとは驚いた」貫井が言った。「誰か女性警官でも連れてくればよかったのに」

「貴方こそ」

 貫井は自嘲して笑い返した。

「何しろ言葉がね」

「言葉は単なる記号でしかありません」

 2人で宴会場の奥でテーブルを囲み、ワインを飲み交わした。貫井は天羽の報告に聞き入っていた。背乗りに対しては驚いた様子もなかった。天羽は低い声で言った。

「次回、《フィリス》が高村に資料と現金を手交した瞬間を押さえて、任意同行をかけます」

「叩き潰せ」

 普段の上司らしからぬ言葉づかいだ。天羽はそう思った。

「この悪魔の所業を世間に知らしめてやろうではないか」

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