第3部:深層
[1]
東京は弱い秋雨が降っていた。天羽のイヤホンに雑音が入る。
「5から《センチネル》、《フィリス》は改札を通過。西口に向かいます、どうぞ」
「《センチネル》、《フィリス》は改札を通過。西口、了解」
現場に展開している視察体制は25名。コールサイン《センチネル》が天羽を含む全視察員を掌握する警視庁公安総務部の作業班。コールサイン《5》は新宿署警備課から派遣された応援要員。天羽に限らず、全視察員は耳にUW101無線機の受令用イヤホンを差している。
いま天羽が後を追っている視察対象者に《フィリス》というコードネームを付けたのは作業班の主任だった。その主任が贔屓にしている外国人パブで、好みのホステスの源氏名から勝手に頂戴したという。
「5から《センチネル》、《フィリス》は小田急線のホームに向かいます、どうぞ」
「《センチネル》、了解」
天羽は背広の袖口に仕込んだマイクに自分のコードネームを吹き込んだ。
「1から《センチネル》、《フィリス》の追尾を5から交代します。どうぞ」
「《センチネル》、了解」
「1から5、脱尾してください」
「5から1、了解。後を頼みます」
《フィリス》は新宿で小田急線下りの急行電車に乗った。車両中央部のドア付近の座席に腰を下ろす。電車が新宿を出発すると、うつらうつらと居眠りを始めた。視察対象者と同じ車両に乗り込んだ天羽は吊革につかまり、そっと車内を見回した。
席に座っている乗客はほぼ全員、眼を閉じている。天羽の眼の前では、若い女性が顔を上に向け、だらしなく口を開けて寝ている。車輪とレールの摩擦音だけが聞こえてくる。
警視庁公安部の捜査員である《フィリス》は周囲を全く警戒していなかった。こちらの尾行に気づいている様子はなく、作業班以外の見知らぬ者が対象を追尾している雰囲気もない。身の潔白の証明だろうか。天羽は《フィリス》を視界の隅に収めたまま、疲れた身体を電車の振動にまかせていた。
現在も、天羽の眼前で山辺を撃った狙撃犯は捕まっていない。被害者に関するあらゆる事柄を調べる鑑捜査では、山辺に狙撃されるような経緯や怪しい筋はないという。遺された線は新宿の富久町で発生した銃撃事件のみ。山辺が上野のビジネスホテルに軟禁されていたことを知った何者かが狙撃犯にその情報を漏らした。警視庁内でそのことを知る者は数少ない。
《フィリス》は43歳。神奈川県伊勢原市内の一軒家に暮らしている。家族構成は1つ年上の妻との間に、9歳になる男の子が1人。《フィリス》が作業班の視察対象者―狙撃犯への内通者として浮上したのは、所有者の身元確認ができない携帯端末を所持していることが発覚したためだった。
その携帯端末の通話記録を調べたところ、山辺が上野のビジネスホテルで狙撃される1時間前、《フィリス》が銀座の誠光プロダクションという会社に電話をかけていることが判明した。事件当日、《フィリス》は山辺の所在を知り得る立場にいた。もしこの電話でそのことを外部に漏らしたとすれば、話が変わってくる。
誠光プロダクションは暴力団のフロント企業と目され、組織犯罪対策部が監視対象に指定していた。狙撃犯と暴力団の関係は不明だが、《フィリス》と黒社会のつながりは十分に注目に値する事実ではあった。
新宿を出てから1時間、電車が伊勢原駅に到着した。眼を覚ました《フィリス》はあたふたと乗客をかき分けて電車を降りる。天羽も降車した。駅の改札を出た《フィリス》は北口からバスに乗った。《フィリス》の行き先はすでに把握していた。駅前でタクシーをつかまえた天羽は運転手に言った。
「大学病院まで行ってください」
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