第2話 船で笑う(山岡編)
時は香澄莉子が奇獣に遭遇する少し前に遡る。
美海市に向かう貨客船の甲板にて、
春も中程、まだ涼しいとはいえ雲一つ無い青空の下で、一時間近く日光に晒されながら掃除をしていれば汗もかこう。
加えて黒いビジネススーツの上から黒いバッフルコートを着ていては余計暑さを感じる。
「シュッコシュッコゴッシゴッシテッカッテカ! うむ、完璧だ」
額の汗を手の甲で拭い取った泰知は今しがた自分が磨き上げた甲板を見て満足げな笑みを浮かべた。
甲板の黒ずみは綺麗に取れ、手摺にこびり付いていた錆も跡形も無く取り去った。デッキブラシで磨いた甲板にはワックスを掛けたおかげで、日光を反射して光輝いているようにみえる。
「なあ泰知、ちょい言わせてもろてええか?」
泰知の耳に付けた通信機から女性の声が聞こえる。近畿地方特有の独特な話し方をする少女の声。
「ん? 何、静流」
「いや、何でアンタそんなにノリノリで掃除してんの?」
「掃除すればタダで乗せてくれるって船長と交渉したってさっき報告したじゃん。あっそれとも僕が掃除した甲板みたい? しょうがないなあ」
「うざ。そういや新人ちゃんには会えたん?」
「いやまだ、掃除終わったら会いに行くよ」
泰知は懐から十字のスリットの入った白い仮面を取り出す。それを顔にあてるとガシュという音と共に端が伸びて泰知の頭部を覆い尽くした。
泰知の視界にいくつもの電子情報が表示される。バイタル、武器の状態、周辺地図等の情報が仮面のディスプレイに表示されているわけだが、実際使っている身としては自分より少し離れた正面に立体的に浮かんでいるように見える。
「んじゃカメラをそっちと同期させるね」
「はいはい見たるわ、おお綺麗になっとんな……っておい泰知、あんたワックス掛けたやろ!」
「ん? そだけど何か問題が――うおっ」
船がいきなりガタッと揺れた。大きな波に乗り上げたのだろう。泰知はその拍子に体制を崩してしまったので、足を思いっ切り踏み込んで体を支えようとした。ワックスを掛けた甲板に。
当然ツルッと足を滑らせた。そしてそのまま船縁へと滑る。
「ヤバッ!」
泰知は足を広げて踵を手摺に引っ掛けた。だが再びツルッと滑って足が手摺から外れてしまった。そして泰知は足を広げたまま船縁へと滑る。正確には船縁の手摺の脚の一本へと、まさに体の真ん中が、股間の中心点にある黄金ボールが向かっていたのだ。
そして激突して止まった。
「オウフッ」
めでたく海へと落ちる危機的状況を脱する事が出来たのだ、男として大事な部分を痛めつけて。
鈍い痛みが突き上がり、肺が圧迫されるのに近い感覚をお腹の底で覚える。
「あっう、お……お……し、静流っ……よくわかったよっ。航海中の船の甲板にはワックスを掛けてはいけないことが」
「あんたホンマあほやな」
静流の呆れた声が股間を押さえてうずくまる泰知の耳に響く。
その時、「ピギャアアア」という甲高い声が聞こえた。警備員の泰知にとっては馴染みの深い声、商売相手であり商売敵でもある奇獣の声だ。
泰知の目の前に現れたのは下半身が魚で上半身が蜥蜴の小型奇獣、全長二メートル前後の蜥蜴もどき。学術名はスキュラ。
スキュラの金色の瞳が泰知を睨んだ。
「何でスキュラがっ!?」
「わからん! ちょい待ちや!」
「待てない! 来た!」
体勢を低くして飛び掛る姿勢を見せたスキュラを見て泰知はすかさず回避行動をとる。だがスキュラの方が一瞬早く動いた。
体重を乗せた前脚を後ろに蹴り、勢いよく飛び掛か……ろうとした。スキュラが蹴った床は先程泰知がワックスを掛けた部分、泰知と同じくスキュラはツルッと滑って船縁まで勢いよく転び、そして手摺の隙間から海へと落ちた。
その様子を見ていた泰知は呆気に取られて指一本動かせないでいた。落ち着いて状況を把握した時、ようやく口を開く。
「…………ワックス掛けてて良かった! ありがとうワックス君!」
「怪我の功名やな。ちゅーかどんだけワックス掛けてんねん」
――――――――――――――――――――
「さてと、他に奇獣の反応はある?」
泰知は起き上がり、船縁から海を見下ろして先程落ちたスキュラの影を探してみた。結果は芳しくなく、魚の影一つ見当たらなかった。
「後部甲板に五匹、他の警備会社が応戦しとる。マズイで! 一匹客席に向かっとる」
「わかった、すぐに行く。静流は船長に報告を」
「あいさ」
甲板を慎重に走りながら泰知は腰のベルトから長さ三十センチメートル、幅二十センチメートル、厚さ十センチメートルの板を二枚取り出してそれを展開した。
ガチャガチャと音をたてて形を変えていく。二秒後それらの板は長さ一メートル、幅五十センチメートル、厚さ十五センチメートルの楕円を半分に割った形状の板に変化した。それぞれグリップが付いている。
それは琉球古武術に使われる武器の一つで、日本やアメリカ等の警察では対人武器として採用されているトンファーだった。
「キャアアア!」
泰知が船の真ん中、客席へと上がる階段に到着した時の事だ。頭上から耳をつんざく悲鳴が聞こえた。
遅れて乗客達が客席から出て階段を雪崩のように駆け下りてくる。
「おい! お前警備員だろ!」
「えぇっ? あっはい」
最初に降りてきた乗客の男性が泰知を見て怒鳴り付けた。
泰知は一歩下がって男性が来るのを待った。
「何があったんですか?」
「どうもこうも奇獣がでたんじゃ! はよなんとかせい!」
そうこうしてるうちに他の乗客が続々と降りてきた。合計十八名、これで全員か?
否、今日出会う筈だった人間がいない。
探したいが、奇獣も何匹いるかわからないし一度乗客を避難ブロックに誘導して隔離してから討伐するべきだろう。
「皆さん! 避難ブロックに誘導します。焦らず付いてきて下さい」
「待ってくれ! 逃げ遅れた人がいるんだ」
「何ですって!?」
泰知の行動をくじくかの如く一人の恰幅のいい紳士がそう告げた。奥さんと娘さんらしき人と一緒にいる事から家族連れとみえる。
「女の子なんだ。助けてやってくれ」
「そんな奴は見捨てろ! どうせ死んでる! むしろ囮になって良いではないか」
そう叫んだのは最初に降りてきた乗客、清々しくクズだ。
だが一理ある。一理あるが、おそらくその女の子は探している人間だ。助けたいが、冷静に考えて今は目の前の乗客の命を優先すべきなのは警備員として当然の判断だった。
「ここは見捨てるべきか」
「おおっと待ちや泰知、ちょうど今後部甲板の戦闘終ったで。船内と船の周辺の生体反応調べたけど残りの奇獣はそこの一体だけみたいやで」
「ほんとに? だったら、皆さん! 奇獣は上の一体だけみたいです。僕はアレを討伐しにいきますので皆さんは船内に避難してください」
「待て! 貴様儂らを放置する気か!?」
「有体にいうとそうです」
「貴様!」
男性は怒り心頭といった様子で今にも爆発しそうだった。
正直泰知はこの手の人間が苦手だ、今すぐ船から蹴り落として奇獣の討伐に行きたいくらいだ。
実際蹴り落とすとはいかなくても殴って黙らせようかと思ったその時、男性の怒りを鎮めるべく先程の恰幅のいい紳士が泰知との間に割って入った。
「落ち着いて下さい、ここは彼の言う通り後顧の憂いを断って確実に安全を確保してから避難した方がよいのでは無いでしょうか」
「そう! まさに僕はそれが言いたかった」
「嘘つけや」
静流の的確なツッコミが耳に突き刺さる。
「ふざけるな! そんな道理が通用するとでも」
「黙れよオッサン!」
叫んだのは泰知でも紳士でもない。乗客の一人だ。その一言をきっかけに他の乗客からも次々と怒鳴り散らす男性に非難の言葉が浴びせられる。
「そうだそうだ」「早く行ってあげて!」「お姉ちゃんを助けて」
「だそうですよ、行って下さい警備員さん」
「ありがとう! すぐ戻るよ」
乗客の声を背中に階段を一気に駆け登る。同時に両手のトンファーをくっつけて楕円形の形にする。するとトンファー同士が接合して一枚の大盾になった。更に端が伸びて防御面積が広がる。
客席に到着した。
ドアを開けるとスキュラが正に女の子へと飛び掛ろうとしていた。駆ける。三足で女の子の傍へと辿り着き懐から銃を取り出す。
四十口径の鉛玉を発射するタイプのハンドガン。引抜きざまに安全装置を解除してスキュラに向けて引き金を三回引いた。
三発の銃弾がスキュラ目掛けて撃ち出され、全弾顔と背中の皮膚が柔らかいところに命中した。彼我の距離僅か二メートル以下にも関わらず銃弾はスキュラの皮膚を貫けなかった。
う〜む固い。
帰ったらレーザーガン発注しよう。あれならまだ皮膚を貫通させられるから。お値段がおそろしくお高いけど。
「え? 銃? あ、あのあなたは?」
傍らにいる女の子がこちらを見上げている。その顔には見覚えがあった。元々今日出会う予定の人間。四日後には自分の同僚になる新人の香澄莉子その人だった。
写真で見るよりもずっと可愛らしく、スタイルもいい。
だがまずはこっちだ。
泰知はハンドガンを仕舞い込んで、代わりに腰から正方形の板を取り出して展開した。板は形を変えてハンドアックスとなり最終的にハルバードへと変わる。
泰知は口を大きく開けたスキュラの口腔目掛けてハルバードを突き刺す。肉を突き破り骨を破壊する感覚に快感を感じて一瞬だけ身悶えた。
「終わった?」
「とりあえずは」
莉子の言葉でトリップした思考回路が現実に引き戻される。
泰知はハルバードを元の板へと戻して腰に下げる。続けてメットを外して一枚の仮面に変形させた。
色々あったけど、ようやく挨拶できる。まずは何から話そうか、とりあえず名前の確認かな。
「ええと君、香澄莉子さんだよね?」
「は、はい。そうですけど、どうして私の名前を?」
「実は君がこの船に乗るって熊木さんが教えてくれてね、掃除任務の傍ら自己紹介しようと思ってたんだ」
「え? はい?」
莉子はよくわからないという顔をしている。
そういえば大事な事を忘れていた。
「あっ、名乗るの忘れてた。僕は株式会社ジッパーに所属する歩兵の山岡泰知、君の同僚になる。よろしく!」
そう言って泰知は床にへたり込む莉子へと手を差し出した。
莉子は一度逡巡した後おずおずと泰知の手を取った。
「か、香澄莉子です。その……よろしくお願いいたします」
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