シーサイド・フェスティバル
芳川見浪
プロローグ
第1話 船で笑う(香澄編)
『香澄莉子様
株式会社ジッパーの熊木と申します。
先日は、当社の社員採用試験にお越し頂き誠にありがとうございました。
選考の結果、香澄様を当社社員として、四月一日付けで採用する事に決定いたし――』
「採用キターー!」
長野戦車兵養成学校の卒業候補生の
三年前に成人を迎えたにも関わらず彼女には社会人になるという意識が希薄だった。
「はっ! えぇと……その、すいません」
莉子は周囲の奇異な視線に気づいてから自分の奇天烈な行動を思い返し、恥ずかしさのあまり頬を染めつつ元の席に着席して悶絶した。
「HEY! ミスターカスミ、機嫌良さそうじゃないか」
「ミスターじゃありません! ミスです! このセミロングの茶髪と! ふっくらした胸のどこが男だと言うんですか!」
莉子が顔を上げると向かいの席に筋骨隆々な巨漢の男性が座った。莉子の担当教官である。
「HAHAHA、細かい事は気にするな。それで何があったんだい? ミスターカスミ」
「だからミスです! 実はですね、
採用通知を教官に押し付けながら空いた手でサムズアップをする。
教官は通知書の内容を確認すると見る見る満面の笑みを浮かべ、「ブラボー!」と手を叩いた。
「良かったじゃないかミスターカスミ、卒業式の一ヶ月前にようやく内定をとれたのだから」
「はい! これで就職難民にならずに済みます。あとミスターじゃなくてミスです」
それからしばらく莉子は教官と卒業式までの訓練スケジュールの確認と在学中の思い出を語り合った。
そして昼休憩が終了する十五分前、食堂に設置してあったテレビが突然バラエティ番組から緊急速報に切り替わった。
『緊急速報です。先程、新国連事務総長がオーストラリア大陸からの国連軍の撤退を表明しました』
その瞬間、食堂内が緊迫した空気に包まれた。
オーストラリア大陸では長い戦争が起きていた。もうかれこれ十年にも及ぶ戦いだ。
「オーストラリアが、奇獣の手に堕ちた」
誰が言ったのかはわからない。だがその言葉は緊迫した食堂内に更なる絶望を与えた。
奇獣、それは四十年前に現れた人類の天敵。当初はただの新種の生物としてしか見られていなかったそれは、高い繁殖能力と攻撃性、また環境によって姿形を変える適応性と類稀なる生命力で持って人類の生活圏を脅かしていった。
「これで南半球は全滅か、ヨーロッパと北アメリカもかなり厳しい状況らしいし北も危ないな」
「教官、奇獣が次に狙うとしたらどこになりますか?」
「そうだな、北に向かうのは当然として……うぅむ、奴らの端から攻める傾向を鑑みて……島国だろうな」
「じゃあ、奇獣が次に狙うのは」
「まずインドネシアかフィリピン、次にインドか台湾、そして日本。近いうちにこの国が本格的な侵攻を受けるのは間違い無いだろう」
この国が最前線になる。そう考えると莉子の体が恐怖で震えた。
今まではテレビでしか感じる事の無かった戦争、それをもうすぐ肌で感じる事になるのだ。
現在はまだかろうじて人類側の優勢と言われているが、それも今や危ういところだ。現に日本では二十年前に募兵制度を導入、同時に成人年齢を十五歳まで引き下げた。これは日本でも度重なる奇獣の襲撃により人口が減り、働ける大人が少なくなってきたから実施されるようになった。
「ミスターカスミ、確か君の会社は」
「はい、警備会社です。あとミスです」
警備会社、主に奇獣と戦う事を生業とする軍事企業、所謂傭兵稼業だ。
主に街の警護をしている事が多い。
「場所はどこだい?」
「四国地方から南に一千キロメートル離れたところに浮かぶ人工島、
「最前線じゃないか! 今ならまだ間に合う、内定を取り消してもらいたまえ」
教官が声も高々に叫ぶ、当然だろう、自分の教え子が危険な最前線で戦うというのだ。死ぬかもしれない、いや確実に死ぬだろう。実戦経験の無い莉子が生き延びるには最前線は過酷だった。
そしてそれは莉子もわかっていた。
「有り難うございます教官。でも私は行きます! あそこには戦えない人達がまだ沢山います。その人達を守るために、そして奇獣の侵攻を抑えるために私は戦います。実戦経験の無い私が行っても出来ることはたかが知れているでしょう。でも出来る事があるのなら私はそれを全力でこなして皆の助けになりたいです!」
「――そうか、そこまで言うのなら何も言うまい。だが、卒業式までの訓練スケジュールを変更させてもらう。全て難易度を最大まであげる。それができなければ卒業は許さん」
「臨むところです!」
その後卒業式前日まで行われた訓練は苛烈を極めた。その訓練光景を見ていた他の訓練生は、あまりの過酷さに腰を抜かしたとか。
そして卒業式の五日後、無事に訓練プログラムをこなして卒業した莉子は駅のホームで電車を待っていた。
見送りは無い、早朝なためホームにも人はおらず莉子一人だった。朝の湿った空気を目一杯吸い込むと心が穏やかになる。
香澄莉子十八歳、二〇四〇年三月二十八日水曜日、美海市へゆく。
―――――――――――――
高知県高知市高知港
数百年の歴史を持つ老舗の港湾、奇獣が出現するようになってからは要塞化が進み、かつての趣のある景色は失われたが依然として大陸を行き来する船舶を見守り続けていた。
そして今日もまたこの港から外海へと繰り出す一隻の船があった。
「ほわぁ〜、おっきい船ですねぇ〜」
莉子は自分がこれから乗り込む貨客船を見上げて感嘆の声をあげた。全長は目算で百メートル、高さは四十メートルくらいだろうか。駆逐艦よりは小さい。
莉子は積荷を運ぶキャリーがせっせと働いている姿を横目に船に搭乗する。
「中は意外と狭い?」
貨客船と言ってもこの船は積荷の搬送をメインにしているゆえ、サイズの割に搭乗できる人数は少ない。
お客さんは莉子を含めて二十人。隣の席には恰幅のいい紳士が座った。
「景色いいですねぇ〜、美海市までは約二時間。綺麗な海をながめていたらあっという間ですよ」
――――――――――――――――――――
出港してから一時間後。
海に飽きた。
出港してからわずか五分で飽きた。
雲一つ無い快晴なため見渡す限り全てが青い景色、それに目を輝かせて胸を高鳴らせていたのも今は昔。あの頃の輝きはもう戻らない。
「海はもう食傷気味ですか?」
「へ?」
窓の外を眺めてはぁと溜息を吐いた時、隣に座る紳士がふとそのような事を聞いてきた。
「ええ、まあ」
「はっは、ですがこの一面の青い景色は今日で最後ですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、もうすぐ日本が最前線になるという事で、明日から定期船や輸送船には護衛艦が付く事になるのですよ。つまり明日からこの青い景色に鈍色が混じるわけです」
「へぇ」
そういえば船に乗る前に見たニュースで、九州地方、それも熊本県や沖縄県では希望する住民を本土へ移住させ、都市部の軍備を増強しているという内容を取り上げていたのを思い出した。
段々物々しくなる。これも戦いが近いという事なのだろうか。
「つかぬことを伺いますが、お嬢さんは何故美海市へ行かれるのですか?」
「就職先がそこなんです」
「それは大変ですね。もうすぐ奇獣が来るのに」
「あはは」
莉子は照れ臭くなり頬をポリポリと掻く。
「まあかくいう私も、人事異動で美海市へ出向する事になりまして。云わば左遷です」
「それは……なんと言いますか」
莉子としてはお気の毒にとしか言えない。
「本当は妻と子供を本土に置いて行きたかったのですが、二人共付いていくと聞かなくて」
「それだけ心配しているという事なんですよ」
男性の視線の先、通路を挟んで向こうの座席には十歳ぐらいの少女が母親と思しき女性と楽しげな会話を繰り広げている。
彼女達が男性の家族なのだろう。
美海市の状況は知っているだろうに、それでも彼女達は男性に付いていく事を選んだのだ。莉子はこの家族が途端に愛おしく思えてきた。
「ピギェェ」
「え?」
脈絡なく突如響いた鳴き声、人間のものでは無い。では何か。
丁度莉子のいる客室の入口、そこに下半身が魚の蜥蜴がいた。まるで魚類が爬虫類に進化する過程で止まってしまったような外見をしている。
全長は二メートル程、鋭い牙を持ち目は金色でギョロッと外側を向いている。
目を引くのはその見た目だけでは無い。その口にはさっきまで入口近くに座っていた乗客の一人が喰わえられていた。
既に目から生気は失われている上に首があらぬ方向へとねじ曲がっていた。誰の目から見ても死んでいるのは明らかだ。
「き、奇獣だああ!」
「いやぁ! 助けて!」「早くここから離れるんだ!」「避難ブロックへ急げ!」「何で奇獣がいんだよ!」「従業員は何をやっている!」「おい押すな!」
最初の叫びを皮切りに船内がパニック状態に陥る。
奇獣はそんな事はお構い無しに咥えた客の死体を咀嚼しはじめた。骨を砕き、肉を噛みちぎり、血を啜る音が客室に鳴り響く。
「うっ」
その光景を見ていた莉子は押し寄せる吐き気を堪えてゆっくり奇獣から離れる。
客室には既に人はいない。莉子だけが取り残された。
足が震えてうまく歩けない、初めて生で見る奇獣に恐怖を覚えているのだ。シミュレータで何度も見た姿、警備会社に勤めると決まってからこういう光景は何度も遭遇するだろうとわかっていたのに、事前に固めていた覚悟を恐怖があっさり打ち砕いた。
「キィギャァ」
奇獣は一通り気になる部位を食べ終えたのか、死体から口を離し、ギョロ目をグリグリ動かしてから莉子に頭を向けた。
「ひっ、いや……助けて」
ついに立つ力も失われて莉子は床にへたり込んだ。奇獣はそんな莉子を嘲笑うかのようにゆっくり口を開けた。
ドロドロの睡液が上顎から垂れ落ち、生暖かく不快な匂いを放つ吐息が莉子に掛かる。
「や、やだ。こないで」
これが奇獣、これが戦場、これが現実。莉子はさっきまで戦場に出るという事を気楽に考えていた。死ぬ覚悟は出来ていると口にはしても、本当に死ぬ事等考えていなかった。
しかも自分は戦車兵だ、戦車がなければ何も出来ない。そんな自分が死なないと思っていたのだ。自分の認識の甘さに今更気付き、そして後悔した。
「――――ッ」
奇獣がふいに立ち止まり姿勢を低くした。一気に接近して噛みちぎる気なのだろう。
莉子はこの後の自分の運命を悟って固く目を閉じた。最後まであんな怖いものを見たくはない。
暗い世界では音がよく聞こえる。奇獣の鳴き声、背後からの足音、奇獣の這う音、目の前で何かが立ち止まる音、奇獣の吐息、そして銃声。
「え? 銃?」
そこで莉子は初めて気付いた。目の前に黒いバッフルコートを着た人物が立っていることに、十字のスリットが入った白いフルフェイスヘルメットを着けているゆえに顔は分からないが背格好からして男だろう。
左手には半身を隠せる大きな盾を持ち、右手でハンドガンを構えていた。ハンドガンからは硝煙がたゆたっている。
「あ、あのあなたは?」
莉子の問いに男は答えない。男はハンドガンを懐に仕舞い込んで、代わりに腰から五十センチメートル四方の四角い板を取り出して軽く振った。
すると板はガチャガチャと音をたててひとりでに形を変えていき、最終的に斧になった。
男は斧の柄を掴んで更にもう一度軽く振った。今度は柄の部分がジャキンと伸びて槍のようになった。
西洋の武器のハルバードという武器だ。
男は盾を前面に押し出すように構え、ハルバードを盾に引っ付けるように並行に構えてそのまま走る。
奇獣は口を大きく開けて男を噛み砕かんとする。男は盾を下げ、ハルバードを突き出した。狙いは上顎、ハルバードの先端がみるみる奇獣の口に吸い込まれ、そして口を突き破った。
ハルバードの先端が目と目の間を突き破り赤黒い肉を押し出している。考えたくは無いがおそらく脳みそだろう。
奇獣は動かなくなった。男の一撃で、たったそれだけで絶命したのだ。
「お、終わった?」
「とりあえずは」
初めて男が口を開いた。
男はハルバードを引っこ抜いて元の板に戻す。そして白いフルフェイスヘルメットを外して素顔を莉子に晒した。
短い黒髪にまだ幼さの残る顔、莉子と歳はそう変わらないとみえた。
「ええと君、香澄莉子さんだよね?」
「は、はい。そうですけど、どうして私の名前を?」
「実は君がこの船に乗るって熊木さんが教えてくれてね、掃除任務の傍ら自己紹介しようと思ってたんだ」
「え? はい?」
わけがわからない。ひょっとしてストーカーかも? と頭をよぎる。
でもよく見ると妙な既視感を感じる。
「あっ、名乗るの忘れてた。僕は株式会社ジッパーに所属する歩兵の山岡泰知、君の同僚だ。よろしく!」
山岡泰知はあどけない顔に満面の笑みを浮かべて、右手を未だ床にへたり込む莉子に差し出した。
莉子は一瞬躊躇った後、おずおずとその手をとった。
「か、香澄莉子です。その……よろしくお願いいたします」
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