第27話

 夢を見た。姉がいた。亜希子がいた。砂場で遊んでいた。亜希子が僕の作った砂山を蹴飛ばした。僕はびーびー泣いていた。でも、多分それは僕が悪いことをしたからなのだった。

 僕は泣いている幼い日の僕を見下ろしていた。がきんちょの僕はいつまでも泣いていた。

 いつまでも、いつまでも泣いていた。

「明信」

 母親に起こされた。

 外はすっかり暗くなっていた。

「もう飯?」僕があくびをしながら聞くと母は首を振った。

「あっちゃんが来たわよ」

 僕は飛び起きる。なんで、亜希子が。

 恐る恐る玄関を覗くと亜希子はそこにいた。亜希子の目は腫れている。

「あ、あっちゃん」

 僕が呼ぶと、亜希子は首だけこちらに向け睨むように僕を見た。

「なんで電話でないのよ」

 慌てて携帯を確認すると確かに亜希子からの着信が数件あった。

「ごめん、寝てた」

「出てこれる?」

 僕は頷いて外に出た。

 亜希子の後をついて歩いた。亜希子はなぜ、僕の家まで来たのだろう。あれだけ怒っていたのに。そっちから電話切ったくせに。

 亜希子は無言で歩いている。僕も何も言えず、黙って歩いた。近くの公園に亜希子は入った。

 小さい児童公園。ブランコと小さな砂場があるだけ。亜希子は二つあるうちの一つのブランコに座った。僕も隣に座る。

「私は女の人と付き合っちゃいけないの?」

 ブランコの軋む音。亜希子は言った。

「ううん、いけなくはない……と思うよ」

「そう」止まったままの僕と、少し揺れる亜希子。

「じゃあ、何であんなこと言うの?」

「ごめん」

「謝んなくていい。理由を聞きたいだけ」

 亜希子は勢いよく地面を蹴った。ブランコはゆっくり動き出した。

「独善的な、独りよがりな、まるで幼稚な考えだよ。俺、あっちゃんに全否定された気がしたんだ」

「私が?何を?」

「俺、あっちゃんが好きだったんだよ。小学校の時も。覚えてる? 結婚するって約束もしたんだぜ」

「……覚えてはいるけど」

「俺、あっちゃんが俺の事を特別な存在だと思ってくれてるのだと思った。辛い過去の話も打ち明けてくれたし」

「特別だよ。ノブは。私にとって」

「うん、だけど、それはなんか違うんだよ。あっちゃんは俺を男としては見ていないでしょ」

「そうだけど、それはいいことなんだよ。男とか女とか、関係なく私はノブを一人の人間として見ているんだから」

 そうなのかな。それっていいことなのかな。僕は聖人なんかじゃない。亜希子がそう思っているのは、単に本当の僕を見てくれていないだけのような気がした。僕の男の部分を排除して、見ないふりして好きになってくれても、僕は嬉しくないんだ。

「俺だって男なんだよ」

「知っているよ」

「だけど、わかってない。知っていたとしても」

 亜希子はブランコを止めた。亜希子の横顔は寂しそうだった。

「ごめん、俺は、男として、いや、恋愛対象としてあっちゃんに見て欲しかったんだ。あっちゃんが女の人と付き合おうが、構わない。俺は、あっちゃんが俺の事を恋愛対象としては見てくれてなかった事が、悔しかった。それだけだよ」 

「そっか」と亜希子は息を吐いた。

「独りよがりっしょ。あっちゃんの辛い過去を知っていても、あっちゃんと俺は恋をしたかったんだ。馬鹿だよね。俺」

 ブランコの鎖を両手にしっかり持って足を空に投げ出す。体が地面と平行になる。見上げる夜空には闇が広がっていたが星は見えない。

「そうだったんだね。私無神経だったね。ノブの気持ちも考えないでごめん。でも私の中でノブはノブなんだ。男じゃなくて」

 何で亜希子が酷い目に遭わなきゃいけなかったんだろうか。無宗教の僕は神様のせいにもできない。亜希子は何も悪くないのにずっと心に傷を抱えて生きていかなければならないんだ。果てる事のない永久の闇を抱えて生きていかなくちゃいけないんだ。

 僕は亜希子が好きだ。僕だって一人の人間として亜希子が好きだ。でも、どうしようもないことだってあるのだ。

「あっちゃん、もういいよ。俺はあっちゃんが幸せでいてくれたら、それで充分なんだ」

 それだけで充分なんだ。自分に言い聞かす。亜希子は僕にとって大好きな大切な家族みたいなもんなんだ。

「ノブ、ありがとう」

 僕は、彼女に言ってあげるべきなんだ。男でも女でも関係ない。友達に、大好きな友達に恋人ができたら、ちょっと妬んだりして多少複雑に思いながらも祝福してあげるものなんだよな。

「あっちゃん、恋人出来てよかったね」

 初めて作り笑いが上手くできた。自然に言えた。亜希子は少し悲しそうな顔をして微笑んた。

「別れたよ」

 そう言って亜希子はブランコを漕ぎ出した。

 前後に揺れる彼女の表情は揺れる髪に隠された。

「別れた? どういうこと?」

「私が馬鹿だったんだ」

 亜希子はそう言ったきり、何も言葉を発することもなく、ただブランコをこぎ続けた。

 錆びた金具の耳障りな音だけが、二人だけの公園に響く。亜希子は黙々とブランコを漕ぎ続けた。振り子の幅が大きくなっていく。僕はブランコに腰をかけたまま、そんな亜希子の様子を眺めていた。

 しばらく、こぎ続けていた亜希子だが、疲れたのか、飽きたのか、漕ぐのを辞めた。

 ブランコは漕ぐのをやめたからと言ってすぐに止まるものでもない。振り子の幅が少しずつ、少しずつ小さくなって、やがて止まった。

「彼女、私の気持ちを分かってくれてると思ったの。でも、違った。私の話を聞いて、泣いてくれたのに、私が守るって言ってくれたのに、帰り際にキスをしようとしてきたの。それも強引に。それじゃ、あいつらと何も変わらないじゃない」

 亜希子は寂しそうに笑った。

「突き飛ばして逃げてきちゃった。初デートだったのに別れちゃったよ」

「そうだったんだ……」

 僕は力なく呟いた。 

「一人で歩いていたらノブのことが頭に浮かんで、来ちゃった」

 亜希子は恥ずかしそうに笑った。

 夜空は晴れているのに、星は数個しか見えない。夜になっても蝉の声は続いている。

「俺のせいかな、俺が変なことを言ってしまったから」

 亜希子は黙ったままで首を横に振った。

 世の中、金じゃないって言葉は金持ちが言うのと貧乏人が言うのとでは、同じ言葉なのに意味も背景も変わってしまう。

 どんな言葉を亜希子にかければいいのかわからない。言葉が気持ちと連動しない。伝えたいことが言葉にならない。

 静かに時は過ぎていく。

「上手く言葉にできないんだけどさ。あっちゃんは魅力的だし、きっと時間が解決してくれると思うんだ。いや、そんな事言われたくも無いよね、ごめん」

 一人で話し始めて、一人でしどろもどろになって口をつぐむ。

「言葉はいらない」

 亜希子が立ち上がった。二三歩進んだ亜希子は背中を向けたままこちらを向いてはくれない。


「人間が他の動物と違う事って、色々あるけど、私は思うんだ。一番の違いはウソをつくことなんだって。言葉なんかなくたって意思疎通は出来るのに、なんで言葉があるのかなって考えたらね。多分、言葉は人を騙すためにあるんだよ。気持ちを表現するためではなくて、気持ちを偽ったり、虚飾したりするために言葉があるんだと思う。あの事があって、学校に行けなくなった私に、『学校なんて行かなくても大丈夫よ』とか、死のうと思ったけど死に切れなかった私に、『生きていてくれるだけで私は幸せなの』だとか、母さんは言ってくれたけど、そんなの嘘だって分かってしまうじゃない。言葉ではそう言ってくれても、目を見れば分かる。私の未来なんて、ろくなものじゃないってことくらい、知ってるんだよ。だから、私に優しい言葉とか、正しい言葉とか、お願いだから投げつけないで」


 声は震えていた。

 僕は立ち上がったものの、ただ立ち尽くすだけだった。言葉をかけることも、抱きしめることだって出来ない。亜希子は淡雪のようで、触れることはできない。

 亜希子は振り向いた。頬に一筋のきらめきが見えた。

「でも、今日、私も分かったんだ」

 鼻をすすってはにかんで、亜希子は言った。

「私、ノブが大好きなんだ」

 彼女の潤んだ瞳は、世界で一番綺麗だと思った。

「ノブはいつも私の為にいろいろ考えてくれて、いろんなことをしてくれたのに、私はそれに気付かなかった。ノブは私にとって特別な存在だってわかっていた。だけど、今までそれが、どういう意味なのか自分でも分からなかったんだ。でね、さっき一人で歩きながら考えていたのだけど、通りの向こうにおじいちゃんとお婆ちゃんが歩いていてね。どっちも腰の曲がった老夫婦だったんだけど、幸せそうに手をつないで歩いていたの。それをみて、ふと、私もお婆ちゃんになる頃には、誰かと手を繋いで歩けるのかな、って思ったの。その時、頭に浮かんだのはノブだったんだ。私がお婆ちゃんで、ノブもお爺ちゃんで、陽だまりの中を歩いている、そんな空想をしちゃったの」

 亜希子は照れたように笑っている。

「今は無理だけど、いつか手をつないで歩きたいなって。そんなこと思ったんだ」

 亜希子の言葉に僕は胸がぽわぽわしてきてしまって、頬が緩んでしまった。

「それは、きっと恋なんじゃないかな」

 おどけて見せる。亜希子は俯いてしまった。僕は慌てて取り繕う。

「じ、冗談だよ、冗談。そうだね。老人ホームで俺なんかボケちゃってて、あっちゃんに手を繋いでもらわないとトイレにも行けなかったり、なんてね」

「……そうだね」

「そ、そうだよ。ははは」

「そうか、そうだったんだね」

「そうだよ。うん。そうだよ、あはは」

「この気持ちが恋なんだね」

「そうだよ、その気持ちが……って、え?」

「今頃わかった。そっか。この気持ちが恋なんだね」

「えっと……。そうかもね」

「恋はするものじゃないんだね。恋は気付くものなんだね」

 雨上がりの夕日みたいに、まぶしい笑顔の亜希子。僕も自然と笑みがこぼれた。

「そうかもね。無理やりするものじゃないよね。気がついたら好きになってるんだろうね、きっと」

「でも……」と亜希子は表情を曇らせた。

「でもやっぱり、まだ怖いんだ。触れるのは怖い」

「そんなの、平気だよ。一緒にいれたら、それだけで幸せだよ」

「嘘でしょ」

「嘘じゃないよ。俺、抱きしめたり、手を繋いだり、したいけど、でもしなくたって平気だよ。一緒に居られたら。それだけで幸せだから」

「ノブはやさしいね。私はいつか、触れ合いたい。いつになるか分からないけど、すぐかもしれないし、ずっと先かもしれないけど」

「うん。いつかそうできたら、いいね」

 これから、僕達がどうなっていくのか、分からない。障害は多く、どうしようもない過去がいつまでも僕らを縛っていく。

 どうなるかなんて分からないけど、きっと悪いことばかりじゃないんだって、そう言い聞かせて、僕達は生きていくだろう。

 だって、僕はあっちゃんが好きで、あっちゃんの笑顔をいつも見ていたいから。


「あっちゃん。好きだ。恋人になって」


 僕が照れながら言うと、彼女は頬を赤らめて小さく頷いた。


 拙い二人の恋が今、始まったのだ。



 完

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