第7話
いなくなった猫が戻ってくるように、なんの前触れも無く梅雨空が戻ってきたのは六月下旬のことだった。
同じことをしていても天気の良し悪しで気分が違うのは何故だろう。恵みの雨とはいっても、ちっとも嬉しくはなかった。それは期末試験が近づいてきたことも一端ではあったのだが、心も空もどんよりと暗鬱な気分の中、僕は亜希子と出会ったのだ。
退屈なバイト時間のことだった。僕が働いているコンビニは住宅街にあり、どの時間帯にもそれなりに客は来るのだが、極端に混んだりはしないので時間を持て余すことが多い。ざっくばらんに言えば、売れてないということである。
僕はレジカウンターで客が来るのを待っていた。
雑用はいくらでもあるが、急ぎの仕事はないし、雨だし、だるいし、僕はただ、ぼんやりとカウンターに立っていたのだ。
気がつくと亜希子の事を考えていた。
十七歳の健全な男子高生が若い女の事を考えるというのは、嫌らしい下心が多少はあるものなのだが、今回に関して言えば違った。
気になるのだ。やっぱりそれは恋心とかじゃなくて。
亜希子という存在が今までに関わったことがない人種だったということもある。彼女はほとんど誰とも口を聞かずに一年半もの間ずっとひとりぼっちで過ごしてきたのだ。
明るい教室の中、彼女だけが異なった空気を纏っている。授業中にぼんやりと窓の外を眺めている亜希子の横顔だけが、飾られた絵画のように僕の頭に焼き付いている。亜希子は授業が終わった瞬間に、すうっとクラスから出て行き、チャイムが鳴るまで帰ってこない。やはり誰かと交流を持とうという素振りなど微塵も見せず、全てを拒絶するかのようにどろりとした瞳をしている。
彼女はどんな気持ちなのだろう。友達がひとりもいない学校生活など僕には想像もできない。僕も中学校に入りたての時期は上手く友達を作ることができなかった経験があるが、だからといって、ずっとそのままでいいとは思えなかった。
当時を思い出す。あのよそよそしい雰囲気がずっと続いているようなものなのだろうか。でも、気の合う奴がいればムカつく奴もいる。大笑いもすれば喧嘩もする。それが学校生活というものではないのか。
ほとんどの少年少女にとって、学校イコール人生とも言えるほど生活の大半を占める場所が、彼女にとっては米粒程度の重みしかないみたいだった。彼女にとって学校とはどの程度の意味を持つ場所なのだろうか。
どの程度の意味かと言えば、弁当を買う客につける割り箸には爪楊枝が一緒に封入されているのだが、あれの意味が僕にはわからない。いらないだろあれ。友達の中でも使ってる奴は見たことがない。袋を開けるときに刺さることもあるし。なければないでなんの問題もないのに。
……と思っていたら、店長が年取ると歯の隙間に詰まるから必要なんだよと言った。僕はなるほどなと感心した。大人になるってのは爪楊枝を使うようになることを言うのかもしれない。
話が脱線した。
要するに、僕にとっては亜希子という存在は十七歳のオンナノコではなく、宇宙人みたいなものなのだ。
「宇宙人に性欲が湧くか?」
茶化す正也に言ったことがあった。
亜希子に抱く思いは友達がいないことに対する同情も、もちろんあるのだが、得体の知れない怖さも強くあるのだ。
誰にも言っていない僕の秘密を彼女は知っていた。なぜあの日、亜季子はあんなことを言ったのだろうか。そればかり考えた。
だが、時がたつにつれ、あの亜希子の言葉には、深い意味など無かったのかもしれないという気もしてきた。
何かの言い間違いや勘違い。もしくは僕の聞き間違いという線も否定は出来ない。
そうに決まっている。だって、僕はあのことを誰にも言っていないのだから。
チラリと壁かけ時計を見る。一八時五分前。あと五分で今日のバイトは終わりだが、夜の時間帯担当の山本さんがまだ来ていない。
山本さんは二十三歳のフリーターなのだがバンド活動をしているせいかよく遅刻する。バンドマンは時間にルーズなのだ。勝手な偏見であるが、多分正しいと思う。 また遅刻すんのかなぁ、と半ば諦めていると客の入店を知らせるチャイムが鳴った。 山本さんかなと思いつつも事務的に挨拶をして入口の方を見ると、眼鏡の若い女だった。
どこかで見た事があるような気がする。
誰だっけ……。
あ、笹井亜希子だ!!
私服姿も眼鏡をかけている姿も初めてみたのが、間違いなく亜希子だ。きっと、たぶん……。
ジーパンに長袖のシャツ。なんだか、おしゃれとは言い難い。
彼女は店員が僕であることに気づくはずもなく、雑用品コーナーのあたりを見ている。
本人かどうか確かめたい衝動に駆られたが、彼女だという確信が持てないから、じろじろ見るわけにもいかず、レジから後姿を覗くことしかできなかった。
せめてレジに来てくれれば本人かどうかわかるのに。
自動ドアが開き、今度こそ山本さんがやってきた。山本さんはギターケースからポタポタと雨粒を落としながら、バックルームに入っていった。雨はずいぶん強いみたいだ。自転車で来たことを悔やむ。
「明信、ごめんな。ドリンクだけ補充してくれねえかな。そしたら。もうあがっていいぞ」
急いでジュースをドリンククーラーにつめる。女は買うものがなかったのかすぐに出て行ってしまった。山本さんが制服に着替えて出てきた。
「おつー。上がっていいよー」
だるそうに言う山本さんに挨拶してバックルームに急ぐ。
学校の外でしか普通に話せる気がしない。大急ぎで着替え、店を出る。自動ドアを抜けた所で山本さんに声をかけられた。
「明信! 勤怠押してねえだろー」
しまった。タイムカードを切るのを忘れていた。立ち止まる。
外をちらりと覗くが、誰もいなかった。もう無理だろう。あれが亜希子だって確証もないし、走って行って、もし話しかけられたとしても、改まって話す程のこともないしな。
くるりと振り向いて店内に戻ろうとしたら、店から出ようとしたお客さんと肩がぶつかってしまった。
「あ、すいません」 女性だった。
「あれ?明信君?」
ぶつかったのはなんと笹井亜希子だった。
「あ、あれえ?笹井?なんでいんの?」 亜希子と初めて話したときと同じ事を今度は僕が尋ねていた。
「え……? なんでって買い物だけど」
亜希子は当たり前のことを当たり前に答えた。
店内で話しているのも迷惑なので僕たちは外に出た。自動ドア脇のひさしで雨を防ぐ。
「アルバイトしてるのって、ここだったんだ」
「おう、ホントは店に入ってきた時に、すぐ笹井だって気づいたんだけど、眼鏡かけてたから確証持てなくってさ。話しかけるに話しかけられなかった」
「あんまり眼鏡では出歩かないからね」
普通に話してる。笹井亜希子が普通に話している。
「俺さ、実を言うと、笹井と同じ中学だったって最近知ったんだ」
三年も同じ校舎にいれば同じクラスになったことが無くても大抵の生徒の顔は覚えているのだが、亜希子のことを僕は本当に覚えていなかった。
「笹井、
探りを入れる。
「三年の時はA組だったよ。転校してきたのは三年の七月くらいだったかなあ。それに貴方はD組だったでしょ。覚えてないのも当然だと思う」
そうか、言われてみれば納得だ。A組とD組じゃ教室も随分と離れているし、三年の時に転校してきたなら僕と関わりがないのも理解できる。それに、亜希子が中学時代も現在の高校生活と変わらないように過ごしていたのなら、存在を知らないと言うのも無理はない。
「そっか……。山井くんの家ってここから近いのか。まぁ同じ中学だったんだから近いのも当たり前か」
「うん、三丁目の都営住宅だよ。って言っても分かんないよね」
自嘲気味に笑う。
「うん、わかんない」
亜希子が僕に釣られて微笑んだ。その笑顔が予想外に可愛らしく僕はあっけに取られて亜希子の顔を眺めていた。
「え?なに?」と亜希子が尋ねてくる。
「いや、別になんでもないよ」
慌ててそんな思いを打ち消す。
「じゃあ、私そろそろ帰ろっかな」
赤い傘を開いて亜希子は一歩踏み出した。
もうちょっと話していたいと僕は思った。
「おう、じゃあ、また」
でも、気持ちとは裏腹に手をあげ別れのポーズをとってしまっていた。
「うん、じゃあね」
亜希子は真顔で僕を一瞬見て、すぐにくるりと背を向け歩き出した。僕はなんとも言えない気持ちで遠ざかる後姿を見つめていた。
「あ、あのさ。もうすぐ暗くなるし送っていくよ」
勇気を振り絞って声をかける。亜希子は振り返った。傘で表情は良く見えなかったが少しだけ微笑んだような気がした。
僕は脇に停めてあった自転車の鍵を開けて亜希子を追いかけた。
「自転車だったんだ」
「今日は降んないと高を括ってたんだけどね」
雨空をひと睨みして、僕は自転車を押し亜希子の隣に並んだ。亜希子は「濡れちゃうよ」と傘を差し出してくれた。
あまりに自然なその態度に、僕は素直にありがとうと言って傘の中に入った。一つの傘に二人。これは世間一般的に相合傘と呼称されるものではなかろうか。
「やっぱり優しいね。本当は一人で帰るのちょっと怖かったんだ」
照れくさそうに亜希子が言った。亜希子の横顔を盗み見る。
やはり、学校で見る亜希子とは全然表情が違う。これは本当にあの笹井亜希子なのかだろか。僕は不思議だった。
もしかしたら、学校には性格が正反対の双子の妹が通ってるのではないかと、突飛な考えも浮かんでしまうほど今の亜希子はいつもの亜希子と違っている。
そういえば。
この前亜希子の家に行った時に不思議に思ったことがあった。彼女は僕のことを『明信くん』と呼んだのだ。 自分が忘れてしまっているだけで、過去に亜希子と話したり関わりがあったのかもしれない。そうでもなければ、初めて話す相手を下の名前で呼ぶか?
中学時代の記憶を辿る。しかし、思い出せるのは当時の日常の輪郭だけだ。水飲み場の蛇口をひっくり返して水を飲んだことや図書室のかびの生えたような臭い。汚れた部室、他愛のないことで笑ったこと。
亜希子のことはやはり記憶にはなかった。
「中学ん時にさ、喋ったことあったっけ?」
考えてもらちがあかないと諦め、直接聞いてみた。
……実は中学生の頃、なんて何か重大なエピソードでも語りだすかと思い身構えた僕だったが、そんな僕の気持ちも知らないで亜希子はあっけらかんと答えた。
「んー、ないんじゃない?」
拍子抜けした
「そうだよなぁ」と頷いて頭をかく。
じゃあ、なんで馴れ馴れしいんだよ。
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