第10話

 期末試験の出来はまあまあだった。ちなみに僕にとっての「まあまあ」とは赤点がない事をさす。いいんだ、勉強なんか。もっと大事なことがあるだろう。それが何かと問うならば、まあ、今それを探しているところなのだとお茶を濁そう。

 それにしても、学校というのはよくわからないことが多い。将来意味があるのか不明な微分積分古文漢文等の勉強に限らず不思議な決まりごとがあったりするのだ。

 さしあたっての疑問は梅雨時にプール開きってのは何考えてんのか、ということである。西高にはプールの授業があるが、古い都立高校だからもちろん屋外だし、雨だからといって簡単にプールが中止になることもない。

 女子はいいよな。生理があって。


 今日は朝から雨。しかも僕は体調を崩し久しぶりに風邪気味だった。更に追い討ちをかけるようにプールの授業は一限目からだったのだ。

 くそ、バイトもあるんだから無理して泳がなければよかった。

 全身の軋むような痛みに耐えながらレジの前に立つ。今日のバイトつらいなー。早く終わんないかなー。そんな事を考えている時に限って時計の針は遅い。

 そんな時だ。ポケットに入れてある携帯電話スマホが震えた。メールだ。


 客はおらず店長もバックルームにいて、店内には自分しかいなかったので、特にためらいもせずに僕は携帯を取り出した。相手はなんと笹井亜希子だった。


 あの日以来、何度かメールをしてみようとしたものの、なかなか出来ずにいた。タイミングやその他もろもろの理由があった。いや、理由をつけて連絡を取らなかっただけなのだ。あの日の亜希子の只ならぬ雰囲気に圧倒されて、彼女と関わる事に尻込みしてしまっていたのだ。友達ができるように協力しようと思ったのに。

 駄目な男だと自分でも思う。

 だからなのかわからないが、いつも頭の片隅に彼女がいた。その感情はまだわからない。恐怖なのか単なる興味なのか、はたまたそれ以外の感情なのか。

 CDも借りてからもう二週間ほどの日にちが経っている。が、まだ聞いていない。聞いてしまったら、亜希子と対峙しなければいけないような気がして聞けなかった。なんでだろう。貸してくれると聞いたときは楽しく感想を言い合えると思っていたのに。

 しかし、CDは聞こうが聞くまいがいつかは返さなくてはならないのだ。

 あちらからメールが来るとは好都合だと思うしかない。意を決して本文を見る。



『今、買い物したんだけど、明信くん気づかなかったね』


 驚いて辺りを見渡すが既に店内には亜希子らしき人物はいない。そういえば、さっきの客がちらちらとこちらを覗き込んでいたような気もするが、なにせプールのせいで疲れていたから、顔も見ずに随分と愛想の悪い接客をしてしまった、ような気がしないでもない。

『ごめん!! 気づかなかったわ!!
 さっきの笹井だったんだ!! なんか雑誌買ってたよね笑』


 亜希子からまたすぐに返事が来た。


『誰だかはわかんなかったのに、何の商品買ったかは覚えてんだ(驚き) ねえ、バイトって何時に終わるの
?』


『ヒマだからね、もう上がっても良さそうなんだけど』


『ちょっと会える?』


『別にいいけど~、なになに??』


『ぅ~ん(汗)来たら話す(ヒヨコマーク)駅前のサイゼで待ってていい?』


『おう、すぐ行くよ』


『うん(笑顔)アリガト(キラキラ)待ってるね(笑顔のマーク)』


 カッコ内はスタンプやら顔文字やらだ。男子に比べいかに女子がそういう記号を多用するかがわかる。

 そんなことより話ってなんだろ、まさかずっと好きでしたとか。いやいやないないない……、ないよな?


 メールの文面から予想してみても、深刻な話ではなさそうだと考えながら、改めて亜希子から来たメールを見返す。

 てか、文面見たら笹井ってめっちゃ普通の女子じゃん。

 あずさとかと変わんない様なメールするんだな。学校では無愛想なくせに。


 心の中でつっこみを入れつつも少し安堵した。自分が亜希子にとって高校初のアドレス交換した相手だというのに、これだけメール慣れをしてるということは学校外には友達がちゃんといるのだと思えたからだ。


 友達はいらないってのも勢いで言っちゃっただけなのかもしれないな、とちょっと無理やりポジティブに考えてみる。


「ほぉ、明信くん、仕事中に携帯電話で女の子とメールですかぁ」


 突然耳元から声をかけられた。驚き飛び退く。


「わわ! 店長!? いたんすか?」


 いつの間にかバックルームから出てきた店長が、不気味な笑みを浮かべて立っていた。すぐさま携帯電話をポケットにしまった。

「ふぅんふぅん、俺が四年も彼女がいねぇの知っててそういう当てつけするんだぁ」


「ち、違いますよ、友達っすよ友達!」


 友達です、という言い訳も状況的に果たして正しいのか自分でも疑問だが、この際どうでもいいや。

 この今年で二十八歳になる雇われ店長は、いつも彼女がいない事を嘆いていて、よくバイトの学生に女を紹介しろと迫っている。良い人ではあるのだが、しつこい。


「いいんだけどねぇ、どうせ客もいねぇし、ヒマだし売上わりぃし、また本部でどやされるんだよ俺は。はぁ、俺には慰めてくれる女もいねーっつうのに、明信はバイトサボって女漁りかぁ。世の中不公平だなぁ」


「いや、だから違いますって。え~っと…あ、こんなだけ暇なんだから俺あがりますよ。今月も人件費やばいんでしょ! お疲れ様っす~!」


 わたわたとバックルームへ逃げる。


「おーい。まだお前7時前だぞ! ったく都合のいい野郎だ。まあ、いいや。人件費ってのはリアルな悩みだし。お疲れさん。いつか女紹介しろよ!」


 店長は悔しさ半分という顔で笑った。

 着替えて店を出ようとした時に、わざわざ僕を引き止めて店長が言った。

「明信よ。女はな、魔性だからな。気をつけろよ」

 

 バイト先から亜希子が待ってるファミレスまでは歩いて十分ほどだ。駅前のこの店には中学時代からよく部活の連中とドリンクバー目当てに行った。そういえば何度か別のクラスの連中と鉢合わせたこともあったな。そうか、亜希子とも実はここで会ったりしていたのかもしれない。


 それならば、自分の事を知っていることも一応は説明がつく。でも、亜希子本人も僕とは中学時代に話した事はないと言っていたんだよな。

 手押しのドアを開け店に入る。高校生、大学生、カップル、ファミリー、勉強部屋変わりに使ってる浪人生風の男。店内半分くらいの席は既に埋まっていた。

 お一人様ですか、と聞いてくるウエイトレスに、「連れが先に入ってます」と伝えて亜希子を探す。亜希子は禁煙席の一角で本を読んでいた。

 あちらは僕にまだ気づいていない。小さく深呼吸をして席に向かう。



「おまたせー」


 努めて自然な笑顔を作りながらソファーに腰掛ける。亜希子は僕を認めると丁寧にしおりを挟んで本を閉じた。


「早かったね。もっと遅いかと思った」

「予定より早く上がれたからね。うちの店、売れて無いんだよ」

 店長にとっては深刻な問題なのだろうが、一バイトの僕にとっては売上不振もただの話のネタに過ぎなかった。 

「へえ、そうなんだ。結構行くんだけどな」

 亜希子の家からは確かに来やすい距離ではある。でも、もっと近くに大手チェーンのコンビニが合った気もするが。

「明信くんご飯食べてないよね」


「バイトから直で来たから、まだだよ」


 亜希子はテーブル脇のメニューを取ってくれようとしたが、僕はそれを待たずに呼び出しボタンを押した。

「メニュー見ないでいいの?」

 亜希子が不思議そうに尋ねてくる。

「いいの、いいの」

 頼むメニューは決まっていたからだ。

 やってきた店員に一番安いドリアとドリンクバーを注文する。もう体に染み付いている悲しき条件反射。貧乏な学生にとってこのメニューは大変お財布に優しいのだ。反面、お腹は不満を言うのだがこれは無視する事に決めている。

 高校生になりバイトをしている分、自由に使える金は中学時代より増えてはいるのだが、貧乏性は簡単には治らないのであった。

「笹井は食べたの?」


「ううん。ご飯は家に帰ってから食べるから、ドリンクバーだけ」


 今日の亜希子は素の方の亜希子だ。よかった普通の女の子バージョンで。ほっとしている自分に気づく。

 僕は学校での亜希子を恐れているのだ。暗く誰とも関わりを持とうとせず、あまつさえ学校の人間全てに憎悪にも似た感情を持っている亜希子に対し、僕は得体の知れぬ恐怖の念を抱いているのだ。

 しかし、一方で今日のような亜希子には好感を抱いている。共通の趣味もあるし、そこらへんのごく普通の女の子と変わらないからだ。

 ただ、この二つの人格がどうも上手く噛み合わないように感じる。

 もしや、多重人格などではないだろうか。

 僕の疑惑の眼差しに気づくわけもなく、亜希子はチューチューとストローでメロンソーダを飲んでいる。

 この子どもっぽくもある亜希子が、この前の恐ろしく暗い表情の亜希子と同一人物であるとは思えない。 

「ドリンクバー単体だろ割高じゃない?」


「別にちょっとくらい変わらないよ」

「なんだなんだ、笹井んちって金持ちか?」


 軽い冗談を放つ。


「貧乏だよ。母子家庭だし」


 やべ、変なこと言っちゃったよ。


「あ、そうか。ごめん」

「なんで謝るの? 明信くんの家だってそうじゃん」

 どきりとする。 

 そうだ。二重人格のような性格よりも気になっている箇所がある。亜希子が僕の周辺情報を知っていることだ。彼女と話し始めたのは最近で、込み入ったプライベートの話など全然していないというのに。

 正也の言うとおり、亜希子がストーカーの類だったらどうしよう。この前、明信君だけは違うよ、なんてことを言った理由も気になる。もし僕に万が一恋をしているなんてことがあったとしても、あの言い方は不気味すぎる。あの時は背筋が凍るようだった。

 僕は亜希子に対しては決してマイナスの印象は持っていないはずなのに、恐ろしさを感じるときがあるのだ。言いようも無い不安。深夜の海を眺めているような漠然とした恐怖。


「そういえば、朝、通学路で話しかけてくれた時に無視したみたいになっちゃってごめんね」


 亜希子は申し訳なさそうに切り出した。しかし、僕はいつのことだか直ぐに思い出せなかった。

「えっと、なんだっけ?」 

「ほら、朝挨拶してくれた事あったじゃない。覚えてない?」

 覚えていない。確かに僕は朝の登校中に同じクラスの奴に会えば「おはよう」と声をかけるが、亜希子にそれを言った記憶は無い。覚えてないのが少し気まずい。

「いつだっけ?」

 恐る恐る尋ねる。

「四月のはじめだったよ」

 クラス替えをして間もない頃か。多分、まだ亜希子が柳川系なのだと知らずに、何の気なしに挨拶したのだろう。全く覚えていないが。

「あの時、返事が出来なくて。なんか悪い気がして謝ろうと思ってたんだけど、タイミングがなくて……」


「いやあ全然気にしてなかったよ」


 適当に笑ってごまかす。薄情な気もするが本当に覚えていない。

 二年になってもう三ヶ月。その中のたった一日の数秒の事を覚えていろと言われても、僕はご覧の通り頭も良くない。

 亜希子はたったそれだけのことを、ずっと胸に抱いていたのだろうか。そんな小さい事をずっと気にしていたのだろうか。

 考え方次第では心優しいとも言えるが、怖い気もする。僕はどっちに捉えればいいのだろう。

 なんだか理由の分からない汗をかいている自分に気付く。一息つこうと、僕はドリンクバーを取りにいくために席を立った。


「笹井はなんか飲む? 取ってくるけど」


「ありがと。じゃメロンソーダ。ガムシロップ沢山入れるみたいな悪戯は、やめてよね」


 笑顔で亜希子。


「やらねーよ」


 亜希子の言葉に僕は自然に頬を緩ませることが出来た。冗談なんて言うんだな。ますます亜希子が分からなくなる。時々垣間見える普通の女の子の部分。時々覗かせる得体の知れない部分。

 笹井亜希子ってなんなんだ?


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