第11話
ドリンクサーバーの前でメロンソーダとコーラをそれぞれのコップにつぐ。
そういえば昔はレストランのドリンクバーは遊び場だったな。友達にコーラを頼むと同系色の烏龍茶混ぜられていたり。逆に友達のカルピスサワーに紅茶のティーバック入れたり。あれはホント迷惑ないたずらだった。
僕は途中からガムシロップを大量に入れるという方法を取っていた。色々なジュースを混ぜると色でばれるからだ。だから、これは我ながらいい作戦だと思っていた。
はた目には分からないし、強烈に甘い烏龍茶を飲んだときの友達の顔ときたら傑作だった。
ん? ガムシロップ?
まただ。なにか引っかかる気がする。さっき亜希子はなんて言ったっけ。
席に戻り亜希子にジュースを渡す。
ありがとう、と亜希子はさっきと同じように微笑んだ。僕の疑惑の眼差しには気付かない。亜希子の顔を凝視する。この顔。どこかで見た事があるかと自問する。
艶のある肩まで伸びた黒いストレートの髪。前髪は眉毛を隠す程度の長さで整えられている。
化粧は……、してるのかしてないのか分からない。流石に粉を吹いているくらいのファンデーションや、口紅くらいならなんとなく判別できるような気がするが、女性経験が皆無の僕には確証は持てない。
今日もプール上がりの女子に、目腫れてるけどどうしたの、と聞いて殴られたのだ。その子は別にどうしたわけでもなく、普段つけまつげの上、どういう手品なのか分からないが一重を二重に変えていたので、プールで化粧が落ちただけだったのだ。涙目の彼女にはサイテーと罵られた。
心配してあげただけなのにあんまりだ。先日も男は無神経とあずさに言われたが、不可抗力の部分も多大にあると思う。
話がそれた。
亜希子の顔を丹念に眺めてみても、やはり何も浮かばない。
「なによ?ジロジロ見て」
さっきと同じ様にストローでメロンソーダを啜っている亜希子は上目使いにきょとんとした顔で僕を見る。
「やっぱり、なんか気にかかるんだよね……。笹井って俺のことなんでそんなに知ってるの?」
顔をまじまじと見つめてくる亜希子。
「なんのこと?」
「いや、なんかそんな気がして」
僕の視線を受け止めて、しばらく二人は黙って見つめ合った。間が空いて、少し悲しそうに亜希子は目を逸らした。
「やっぱり、昔になんかあった? 悪い、全然思い出せないんだ」
申し訳ない気持ちで僕は謝った。しばしの沈黙の後、亜希子は顔を上げた。一つため息を吐いて亜希子が口を開いた。
「私の名前わかる?」
落ち着いた口調だった。質問の意味がわからなかった。
「え? 笹井でしょ、笹井亜希子でしょ」
「そうじゃなくて」
見つめてみてもやっぱりわからない。笹井亜希子。ササイアキコ。ささいあきこ。 「いいの、わかるわけないものね……。ねえ、明信君。死ぬって何だと思う?」
僕はぽかんとした。唐突にそんなこと聞かれても答えられるはずがない。目を白黒させているだけで何も言葉が出てこない。そんな僕に元々答えなど期待していなかったのか、亜希子は静かに語りだした。
「死んだら会えなくなると思うでしょ。私もそう思ってたんだ。
ふふ、突然こんな話しても困っちゃうよね。でも聞いて欲しいんだ。
ねえ、明信君は死ぬの怖い?
私はね、なんとも思わないんだ。だってそうだもん。今の私、生きてるって確証がないから。
わかんないんだ。ホントに生きてるのかな、私。
ホントはとっくの昔に死んじゃってて、私が生きているこの世界って、私のことを大切に思っててくれた誰かの思い出の中なんじゃないのかな。
ね、馬鹿でしょ。私ってそんなこと考える時があるんだ……。でもね、そう思うととっても楽になれるんだよ。だって、そしたらきっと、この先良いことしかないじゃない。
もう二度とお母さんやみんなを悲しませたりしないじゃない。
きっと今度は幸せになれる。今度は何にも悪い事はおきなくって幸せになるんだ。
そしたら、今度はきっとあの時より前の、明るい私に戻って、今度は楽しい人生を送るの。そう思うんだ」
伏目がちに語る亜希子だが、その声は意外とはっきりしている。僕は亜希子の顔をただ見つめていた。何の話をしているのだろう。何か僕に伝えたいことがあるのだろうか。
こんがらがる頭を解く余裕もなく、ただ亜希子の言葉に吸い寄せられるように、彼女の湿った唇を僕は見つめていた。
「でも、もし、これが現実なんだったなら、そうだったらね。私は忘れて欲しいと願っていたんだ。
死ぬって存在の消滅でしょ。でも、死んだからってその人が生きていた事までが消滅するわけじゃない。
生きていて一番悲しいのは忘れられることだよね。いくら生きていたって誰にも存在を認められなければ死んでいるのと同じじゃない。
私はね、私のことを知っている人達全員から忘れられたかったんだ。
それは過去の清算でもあるの。
私は私であることにもう耐えられなかった。精神的にも肉体的にも。だから、笹井亜希子になったし笹井亜希子になれたの。
笹井亜希子として生きていくことを選んだの。私自身が。
だけど、私はずっとあの時のまま。笹井亜希子、なんて名前を変えても、私は、私自身は代わることなんて出来なかった。
例え、皆が私を私の望みどおり忘れて、それで死んだも同然になったとしても、私は私を忘れることができないわ。だから……」
そこで亜希子は言葉をとめた。沈黙。重い空気。店内に流れるインストゥルメンタルの九十年代ポップスだけが、場違いに明るい。
亜希子は俯いた。髪が流れ表情が隠される。
「だ、だから?」
僕は聞き返した。亜希子は黙ったまま動かない。小刻みに肩が揺れている。しばしの沈黙。僕はその間に一気に捲くし立てられた言葉を頭の中でもう一度反芻していた。
自分が生きている確証がないから死ぬのが怖くないと言った。
自分でいることが耐えられなくなって笹井亜希子になった、
笹井亜希子として生きることを選んだ。
嫌な気分になる。まるで死んだ姉が言いそうな事だったからだ。
姉の晶子が。
いや、違う。錯綜し始める頭で否定する。
亜希子は亜希子の悩みがあったんだ。僕ら姉弟とは別の話だ。
亜希子の言葉の意味は分からない。特に「笹井亜希子」になったというくだりは特に。まあ何かの隠喩なのだろうか。
僕には亜希子の言葉を原文ママで受け止めていいのか分からない。
「ごめんね。意味わかんないよね」
亜希子がぽろぽろと涙をこぼし始めた。焦った。話はわけ分からないし、突然泣き出しちゃうし。
「あ、あのさ。無理に喋んなくていいよ。なんかさ、ごめんね。追い詰めちゃったのかな俺」
おろおろとうろたえる僕。僕の目の前で起きているこの状況はいったい何なんだ。きちんと説明してくれないと何にもわからないよ。
「私ね、ノブが許せなかった」
「え……」僕は固まった。
「私がこんなになっちゃったのに、何の悩みもなく、私のことも忘れて、馬鹿みたいに明るく生きているノブが許せなかった」
なに、これ。どういうこと?
頭が真っ白になる。
「え?なんで? なんで笹井が? 全然わかんないよ」 問いただす僕の声は自分でも笑っちゃうくらい震えていた。
ノブ……。
ノブ……。
暗い夜道の向こうから声がする。顔は見えない。だけど誰だかわかるあの夢。這いつくばってこちらに向かってくる女の夢。
あの夢の続きを僕は見ているようだった。暗闇に立っているのはアキコだ。アキコ? ササイアキコ?
「そっか。思い出せないよね。五年も経っちゃったんだもんね」
ハッとする。五年。
唐突に思いだす。姉が死んでから過ぎた時間だった。
姉の顔を思いだそうと試みるが、記憶は遠く、ぼんやりと輪郭が浮かぶだけだった。じわじわと寒気が襲ってくる。息が荒くなる。
「わかんない、わかんないよ」
「なんでそんな目をするのよ。ノブ、まるで幽霊でも見てるみたいな顔してるよ」
「アンタ、私ヲ殺シタンデショ?」
亜希子は真っ赤に充血した瞳で僕を見る。悪夢の中、這いつくばるあの少女のような真っ赤な瞳だ。
僕は言葉を失ったまま固まっていた。目の前にいるのは誰だ。笹井亜希子。今は笹井亜希子。じゃあ前は?
「ネェ、本当ニ忘レテシマッタノ?」
無表情に亜希子が言う。瞬きもせずに僕を見つめている。まるで『あの日』僕が見た何も映らない開きっ放しの姉の瞳のように。
そう思った自分に驚く。『あの日』ってなんだ? どういうことだ? 僕は何を思い出したんだ? 僕は『あの日』に何を見たんだ?
「ま、いいわ。余計な話をしちゃってごめんね」
真っ赤な瞳でくくくと笑う亜希子。さっきまで泣いていたのに。もう意味がわからない。
学校での亜希子とも、学校外での亜希子とも違う、不気味な妖気を纏った少女がそこにいた。
「今からさ、ノブんち行っていい?」
「うち? 俺んち? な、なんで?」
僕は混乱していた。心臓も破裂しそうなほど激しく脈打っている。でもその理由が分からない。なんなんだ。僕は何に恐怖しているんだ。心の扉が開きかかっている。駄目だ。開けたくない。心の闇に光を当てたくない。放っておいてくれ。
「久しぶりにお母さんに会いたいんだ。そしたら、いい加減ノブも私のこと思いだすんじゃない?」
僕の頭はパニック状態で、まともに何かを考えることなんて出来なかった。荒くなる息、痛む頭。必死で押さえながら思っていたこと、それは一刻も早くこの場から逃げ出したい、それだけだった。
「今日は、その、仕事……。そう仕事で遅くなるからちょっと会えないと思う」
ひきつったままなんとか返す。テーブルの下に隠した手は震えている。寒い。なんでだ。震える必要なんてないはずなのに。
「ホント?」
「うん」ごくりと唾を飲む。べっとりと纏わりつく亜希子の視線から逃れられない。
「明日は?」
能面のような顔の亜希子。
「いやあ、明日もちょっと……」
「私、この日が来るのを五年間も待ってたんだよ?」
息が詰まる。やめてくれ。それ以上言わないでくれ。思い出したくないんだ。
思い出したくない? 何を?
僕は何を思い出したくないんだろうか。
「に、日曜日くらいしか家にいないからさ……」
にやりと亜希子が微笑む。しまった。
「じゃあ、日曜日に行くね」
馬鹿、俺の馬鹿。墓穴を掘ってどうする。
肯定も否定も出来ないような唸るだけの曖昧な返事を僕はした 。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます