第26話
待ち遠しかった夏休みは、なってしまえば退屈でしかない。正也はバイクの免許を取りに教習所に通い始めた。禎は毎日部室でギターを弾いているのだろう。後輩の彼女とは上手く続いているらしい。夏休みこそキメる、と意気込んでコンドームを大量に買っていた。バカめ。
あずさはいつも通りだ。無理していつも通りを装っているのかもしれないし、本当にもうあの事は無かった事にしているのかもしれない。僕は新しく買った携帯電話の操作に未だ慣れていない。
そして、亜希子。そう、亜希子だ。
その日、午前からだらだらと正也と遊んでいた。渋谷のゲームセンターに向かって歩いている時だった。
「マサヤさあ、あずさに告ったんだろ。言えよ俺に」
僕がそう言って悪どく笑うと、正也はまいったなあという顔をした。
「なんだ、バレてたか」
「なんで隠してんだよ」
「恥ずかしいじゃん。いつも一緒にいたのに、そんなん言えるかよ。明信に変に気を使わせたくなかったんだよ」
「結構前から気は使っていたぞ」
「マジか。お前ポーカーフェイスだな」
正也は心底驚いた表情になった。気付かぬは本人だけ、か。
「それなら知ってるか? あずさ、お前が好きなんだぞ」
「知ってるよ」
告白してきた。とは言わなかった。
「マジか? それも気づいてたのか。で、お前は、どうなんだ?その、あずさのこと」
気のないそぶりだが、気になって仕方ないのがバレバレな正也。ホントいい奴だよなと思う。
「俺、別に好きな人いるからさ」
「そうか、そうだよな。はは、あんながさつな女、好きな奴なんてそうそういねえよな」
「俺の目の前にいるけど?」
「やかましいわ」
正也は僕の肩を叩いた。
「絶対お前なんかより俺のほうが良いと思うのだが、どう思う?」
知らないよ、そんなこと。
「俺さ、実は松本にけし掛けられてあずさに告白しちまったんだよ」
学級委員の松本、僕の前では明るい子なのだが、正也やあずさの評判は悪い。
「あの女ホント悪女だぜ 熊倉君が滝沢さんのことを好きって言わないから、滝沢さん明信君にちょっかいかけてるんだよ、なんてことを言うんだよ。あのアマ」
そんなことを、あの松本が言っていたなんて意外だ。
正也もあずさも松本が計算高い女だって言っていたっけな。本当にそうなんだ。
「で、お前、乗せられちゃったの?」
「恥ずかしながら」
僕は思いっきり笑ってやった。正也ももう過去として整理がついているのか、いつもみたいにムキにならず、苦笑いを浮かべただけだった。
「で、あずさとはその後はどうなの?」
「まあ、普通だよ。ってお前も分かってんじゃん。相変わらず一緒にいるんだから」
まあ確かにそうだ。あれから、僕たちは何にも変わらないように一緒に過ごしている。
変わらないように、ね。
変わっていないフリをしているだけなのは三人とも分かっているはずだ。
「俺、諦めたわけじゃねえからな。つうか、今までは一人で勝手に好きなだけだったんだけど、今となってはその気持ちもお前らにも知られちゃってんじゃん。これからだよ。フラれたからって、嫌いにはなれねえもん」
似つかわしくない晴れやかな顔をして、正也は言った。
「ストーカーにはなるなよ」
にやつきながら茶化すと、
「ならねえよ!」と正也は僕の肩に再びパンチをしてきた。
正也は諦めの悪い奴なのかもしれないが、そういう所も嫌いじゃなかった。
二人でそんな他愛の無い会話をしながらぶらぶらしているその時、正也が何かを見つけた。
僕の肩をちょんちょんとつついた。
「おい、あれ、笹井さんじゃねえか?」
亜希子が渋谷に居るわけがない。
「いるわけないだろ」
渋谷の町を亜希子が歩いているなんて、僕にはまるで想像がつかなかったのだが、正也の指し示す方向に確かに彼女はいた。
「まさか……」
しかも、一人ではなかった。男と腕を組んで楽しそうに歩いていた。
「彼氏、かな?」正也が囁く。いや、そんなはずない。だって、亜希子は男の人なんかと腕を組むはずがないのだから。
「た、他人の空似だろ。あんな感じの子いっぱい、いるじゃん」
言葉と裏腹に僕は動揺していた。僕が亜希子を見間違うはずがない。あの長袖のシャツにジーパンという服装を見ても彼女だと分かる。
だけど、腕を組んで歩くカップルの片割れが亜希子だとは信じられなかった。あの日、僕の手を拒絶した彼女のことが頭をよぎったからだ。彼女は体に触れられる事を極端に拒んでいた。
「ま、俺もあんまり笹井さんのことをちゃんと見た事ないし、お前が言うなら他人の空似か。それよりさ、お前の好きな奴って誰なんだ? 教えろよ」
正也は歩いていく亜希子より僕に興味があるようだった。僕は正也の問いを適当にはぐらかし、作り笑いを浮かべたが、視線の先、交差点の雑踏に消えていくカップルから目が離せなかった。
ゲームセンターで遊んでいる最中も、あのカップルの姿が脳裏に焼きついていた。
格闘ゲームで正也に三連続で負けた。買った方はそのままプレイ続行できるが、負けると百円を失う。僕は立て続けに三百円も失って、正也に挑むのをやめた。
正也がゲームを続けている間に慣れない携帯で亜希子にメールを送った。
『さっき、あっちゃんに似た人を渋谷で見たんだけど、違うよね?』
軽い感じの文面にしたつもりだったが、どうだろう。
返信は直ぐに来た。
『うそー、見かけたなら声掛けてくれれば良かったのに』
いるんだ。渋谷に。じゃあ、あの男の人はなんなんだ。心にもやもやした気持ちがつのる。
『俺も友達と一緒にいたから話しかけられなかったんだけどさ、あっちゃん一人だった?』
渋谷にいるだけで、僕が見かけた人物とは別人かもしれない。藁をもつかむ思い出で返信を待つ。
『なあんだ、見られちゃったのかあ。結構カッコいい人だったでしょ。なんちゃってね』
嘘だと言って欲しかった。本当にあれが亜希子だったなんて。メールでよかった。直接会っていたら僕は作り笑いも出来なかっただろう。
『うん、カッコよかった。よかったね、彼氏出来たんだ』
よかったね、なんて返事を返したが、全然よくない。
信じられなかった。だって、ついこの間、僕を拒絶したのは、僕が男だからであるわけで、亜希子にとって男という存在自体が、拒絶の対象だであるものだとばかり思っていたから。
でも、今日の亜希子を見ると、そうではなかったみたいだ。
僕は勝手に自分が亜希子にとって特別な存在なのだと、自惚れていたが、違ったのだ。
あの日の拒絶は相手が僕だからこその拒絶だったのかもしれない。
だって、亜希子は男の人が怖いと言っていたのに、あんな風に見知らぬ男と腕を組んで歩いていたんだ。
僕の勝手な勘違いだったんだ。ショックを受けつつ、でも、これはいいことなのだと自分に言い聞かせる。好きな人が出来て、一緒に手を繋いで歩いて。いいことじゃないか。そうだよ、いいことなんだよ。
頭ではわかっているのに、納得がいかない。僕は勝手に、亜希子の隣にいるべきなのは自分だと思っていたからだ。
携帯電話が震え返信を告げる。
僕は複雑な気持ちを抱えてメールを見た。しかし、その気持ちは直ぐに吹き飛んだ。
『はずれ、女の人だよ』
僕の脳味噌は高スピードで空回りした。
『ん? どういうこと??』
本当は「?」マークを百個くらいつけたかったが、流石にそれはしつこいのでやめた。
でも、つけたほうがよかったかもしれない。その後メールが返ってこなかったからだ。女は友達同士でも手を繋いだり、腕を組んだりする不思議な生き物ではあるが、亜希子たちはそういう友達ノリの雰囲気ではなかった。
ゲームセンターを出て、ラーメン屋に寄って、正也が教習所だから、と駅で別れて、電車に揺られ、家についてからも、僕はずっと右ポケットに入れた携帯電話から気持ちが離せなかった。
何度も確認したがメールは来ていなかった。
僕はついに我慢できなくなり、亜希子の電話番号を携帯の画面に出した。
……でも、なんと言えばいいのだろうか。
「なーんだ。あっちゃんってレズビアンだったのかー」
なんて能天気に言えるはずも無い。かと言って、聞かずに居てはこのもやもやした気持ちが治まらない。
優柔不断な僕は発信ボタンを押そうかよそうか悩み、しばらく固まっていた。ようやく踏ん切りをつけ電話をすると意外にも亜希子はあっさり出た。
「ん? なあに?」
まだ外に居るのだろう。喧騒の中から、いつも通りの声。
「まだ、渋谷デート中?」
努めてさりげなく尋ねる。
「うん、彼女今トイレ行ってるから」
「あ、そうなんだ」
彼女、という言葉の響きが何を指すのか、確信は持てない。恋人という意味なのか。はたまた、ただの三人称なのか。
「で、何か用でもあった?」
「あ、いやさ。さっきのメールってどういう意味だったのかなって思って」
歯切れの悪い問いかけになった。亜希子は少し考えてから「ああ、そんなこと」と笑った。そんなことじゃない。
「私ね、気づいたんだ。違うか。気づかせてもらったの。恋愛って自由なんだよね」
明活に語る亜希子。嫌な予感しかしない。ちょっとその冗談は笑えないよ。何を言ってるんだよあっちゃん。
「メル友だったんだけどね。電話とかしてるうちに私の事を好きになったんだって。彼女、同性愛者で周りから理解されなくて、打ち明けるか悩んだらしいんだけど真剣だったんだよ。私感動しちゃった。こんな私のこと、本気で好きになってくれる人がいたんだって。私、自分のこと話したんだ。そしたら彼女泣いてくれたの。男なんか信じちゃいけないよって、私が亜希子を守るからって」
携帯電話を持つ手が震える。この感情は何なんだろう。今まで感じたことのない感情が胸を鷲掴みにしてくる。
あっちゃんは間違った事を言っているのか?
恋は誰にしたっていいもので、たとえ相手が同性だとしても、当人がよければそれでいいじゃないか。なら亜希子が言っていることは別に間違ったことじゃない。でも、なんだろう。この胸に残るざらついた感情は。
「彼女の言うとおりだわ。男なんか信じちゃいけないのよね。初めからわかってたのにね。目が覚めた気がした。私はもう恋なんかできないと思ってた。でもそんな事なかったんだね。彼女、それを気づかせてくれたの。あ、ノブは大丈夫だよ。私、ノブの事好きだもん。だけど、他の男の人はやっぱり駄目だし」
亜希子が男の人も女の人も平等に見ていて、その中で女性を選んだのなら何も文句はない。でも、亜希子は違う。男が怖いから女に逃げたのだ。僕はそう思ってしまった。
「亜希子が逃げた」と、そう思う僕を、僕自身は醜く感じた。逃げたわけではない。亜希子は男に汚されたのだ。男なんて嫌われて当然なのだ。
でも、僕は亜希子が目を背けたのだと、そう思ってしまったのだった。なんでそんな風に思ってしまったのだろう。僕は亜希子の気持ちを理解しているつもりだったのに。
亜希子は今、とても幸せなのだ。僕の目にどう映ろうと、彼女が幸せならばそれでいいはずなのに。僕は亜希子の幸せを願っていたはずなのに。
この感情はなんだ。嫉妬? 妬み?
そうか。全部、僕の独りよがりだったのかもしれない。
「ノブのおかげだよ。ノブのおかげで私、自分と向き合えたんだ。こうして恋人が出来たのもノブのおかげだから」
嬉しそうな弾む声に、僕は苦しさを感じていた。
違う、違うよ。あっちゃん、違うんだよ。僕はあっちゃんの為なんて思っていなかったんだよ。僕は結局僕の事しか考えていなかったんだ。僕はあっちゃんに乱暴をした男と同じなんだ。僕はあっちゃんを守ろうとして、でも同時にあっちゃんを手に入れようとしていたんだ。
「あっちゃんさ、その人の事は本当に好きなの?」
「え?」亜希子が戸惑った声を出した。
「好きで、好きだから付き合ったの?」
そんなつもりはなかったのに、責めるようなトーンになってしまっていた。
「いい人だよ。私を好きって言ってくれたんだもん」
「そういう問題じゃ無いじゃん」
「なんで? 私なんかを好きになってくれたんだよ?」
「そういう話じゃないだろ。……俺だって、あっちゃんが好きだよ」
声は震えていた。
「ありがとう。私もノブのことは好きだよ」
亜希子は僕の言葉の意味を理解せずに答えた。それはある意味とても残酷な言葉だった。
「……そうじゃなくてさ、いくら幼馴染でも、昔から知ってても、俺とあっちゃんは異性なんだよ。俺はあっちゃんが嫌いな男なんだよ」
「何言ってるのよ。ノブはノブじゃない」
僕が冗談でも言っていると思っているのか、亜希子の言葉尻には笑みがこもっている。
「俺は俺だけど、俺は男なんだよ」
「男なのは分かってるよー」
分かってない。亜希子は何にも。伝わらない苦しさが、僕の口から乱暴な言葉に変換されてしまう。
「違う! そうじゃないんだよ。俺はさ、あっちゃんに乱暴した男と同じ種類なんだよ」
「どういうこと?」
空気が変わる。目の前に居るわけでもないのに、軟らかかった空気が一気に張り詰めたのが分かった。
その空気の変貌に一瞬、冗談にして話を終わらせようかとも思ったが、もう後戻りはできなかった。
「僕は男として、女のあっちゃんが好きなんだよ。俺、あっちゃんを混乱させるようなこと言ってるかもしれないけど、聞いて欲しいんだ。あのさ、男って本当に馬鹿で幼稚で鈍感で欲望ばっか強くて乱暴で、あっちゃんが拒絶するのも本当によくわかる。わかるなんて偉そうな事言えないけど、でも、あっちゃんが経験した出来事の辛さは想像できないほどの物だってことは分かっているつもりだよ。だけどね。こんなこと言ったらあっちゃん怒るかもしれないけれど、でも、男にもいいところはあると思うんだよ。これは俺が男だから贔屓目に見て言ってるだけなのかもしれないけど、でも、いい奴って本当にいるんだよ。だからさ、男だからって、それだけの理由で拒絶しないでよ。違う、ごめん、あっちゃんだって拒絶したくてしてるわけじゃないよね……。ごめん、俺馬鹿だから上手く言葉に出来ないんだけど、お願いだから、お願いだから男って生き物に愛想尽かさないで。男だからってそれだけで嫌いにならないであげて」
伝えたい事は僕の心にあるのに、それを、上手く亜希子に伝えられなかった。話している最中、どんどん亜希子との距離が遠くなるのを感じた。
「何言ってるか、全然わかんない。全然わかんないよ。っていうか、わかりたくもないよそんな話」
亜希子は声を荒げていた。携帯電話のスピーカーからは割れた亜希子の声が突き抜けてくる。
「ごめん」
僕は謝った。謝るくらいなら初めから言わなければいいのに。
「ノブなら喜んでくれると思ったのに。私にも恋人ができるんだってノブは喜んでくれると思ったのに!」
亜希子がこんなにも怒りと失望の感情を露わにするのは初めてだった。僕は黙って亜希子の言葉を受け止めていた。
「もういいや。じゃあね、さよなら」
小さく吐き捨てるようなその声を最後に、ぷつり、と電話は途切れてしまった。ツーツーという相手がいない電話の音をしばらく僕は聞いていた。
終わったな、携帯電話をベッドへ投げつけ、ベッドに転がった。虚無感に襲われる。もう何も考えたくない。
なんであんなことを言ってしまったのだろう。もっと言い様はあったはずなのに……。
不貞腐れた僕はベッドで転がるうちに寝てしまった。
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