第25話
久恵ちゃんが帰ってくるまで僕は亜希子の家にいた。泣き止んだ亜希子は、それでもなお「ごめんね」と繰り返し自分の部屋にまるで幽霊のような足取りで入っていった。なんで亜希子が謝るんだよ。誰が悪いのか。
帰ってきた久恵ちゃんは亜希子の部屋に行き、そして僕の顔を見て、全てを悟ったようだ。
「明信、亜希子から聞いたの?」
「うん。全部。俺、自分が男だってことが嫌んなっちゃったよ」
「それは違うよ。個人の問題よ。男だって私の元旦那みたいに駄目な奴もいるけど、明信のお父さんみたいにちゃんとした人の方が多いんだと思うよ」
親父か。見たこともない親父。母に一度聞いたことがあった。再婚しないのかと。母は答えた。私が再婚したら天国のお父さんが悲しむからしないわ、と。
「ご飯食べていきなよ。ってあれ? 交通事故は大丈夫なの?」
久恵ちゃんのすっとぼけは少し笑えた。
「久恵ちゃんのせいであっちゃんが勘違いしてお花持って来たよ今日」
久恵ちゃんは笑った。女の人って強いな。僕は弱くて乱暴な男にまた失望した。
「明信、あんたは強くなりなさいよ」
「うん。分かっている」
久恵ちゃんに母へ連絡してもらって、久恵ちゃんの手料理を頂いた。野菜炒めは美味しかったけど、亜希子の話が衝撃的過ぎてあまりのどを通らなかった。
その日は、夜も中々眠れなった。考え込んでしまった。話を聞いただけでこんなになってしまうのだから、実際に体験した亜希子の恐怖は筆舌しがたいものだろう。亜希子の泣き顔、お腹のタバコの痕、目を閉じると浮かんでくる。なんて僕は無力なんだろう。布団を被って僕は少し泣いた。弱いな男って。
朝、日差しは眩しい。なんにもしたくない脱力感の中、母親に起こされ、もぞもぞと制服に着替えた。一晩たって亜希子の話はより一層僕の内面に根を張っていた。気分転換でもしようと思うのだが、亜希子は一生気分転換など出来ないのだと思うと、もっと気分は沈むのだった。
自転車がない。しかたないけど今日から電車通学だ。まあもう夏休みに入るからいいけど。気温も日差しも、うざい。顔を洗おうとして洗面所の鏡をみてびっくりした。
自分の顔が幽鬼のように酷く暗かった。亜希子の話は僕の世界観を変えてしまったのか。
亜希子に学校に来い、などと僕はもう言えない。
家を出て駅へ向かう。陰鬱な気分は快晴でも晴れない。更に駅のホームで気分は落ち込んだ。
人身事故の影響でホームに人が溢れかえっていた。電光掲示板を見ていたサラリーマンが小さく舌打ちをして迷惑そうに呟いた。
「朝っぱらから死んでんじゃねえよ」
人が、人が一人死んでいるんだぞ。ぶん殴ってやりたくなった。僕だって今まではこのサラリーマンと同じようにしか思わなかったのに。他人の痛みにいちいち感傷的になっていたら人間生きてはいけないけど、全てに不感症にはなりたくない。僕は苛々していた。
ホームに現れた電車は既に満員だった。押し込まれるように車内に入る。隣のサラリーマンから発せられる大人の男性独特の臭いに辟易しながら満員の車内を何気なく見回す。
見知った顔がいた。あずさだ。同じ電車になるなんて珍しい。乗り換えの関係上、同じ電車に乗ることは滅多にないのだけれど、これも人身事故のせいなのだろう。
あずさは近くにいるくせに僕には気づいていないようだった。僕は視線を送り続けた。気づくかなあ、という軽い気持ちだったのだが、あずさの様子は変だった。
やたらと身をよじっている。隣にいたら、満員電車でツイストダンスですか、とでもつっこんでやるのにな。そんなことを考えていると少し気が紛れた。
中間の駅で少し乗客が減った。なんとか移動できない混み合いでもない。あずさに近づこうと思って体を揺すった時だった。
見てしまった。
あずさの後ろのサラリーマンがあずさの体を触っていたのを。
あずさが先程から奇妙な動きを見せていたのは痴漢から逃れようとしていたからだったのだ。
僕の心拍数が急上昇した。頭に血が上るのがわかった。
気がついたら叫んでいた。
「てめえ! 何してんだよ!!」
車内中に響き渡る声。訝しげにこちらをみる乗客たち。
「アッキー?」とあずさが声を上げた。痴漢をしていた男は両手を上げた。
「な、何だね君は」
僕は乗客を掻き分けそのサラリーマンの元に行き、胸倉を掴んだ。
「触ってたろ、てめえ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「お前みたいな奴がいるから! お前みたいな野郎がいるから!」
言葉と同時に右手が出ていた。力任せにサラリーマンの顔面を殴りつけた。自分でも何を言っているか分からないくらい頭に血が上っていた。騒然となる車内。迷惑そうに離れていく乗客たち。あずさが僕にしがみついてきた。やめて、と叫んでいる。
「なにやってんだ」
「喧嘩だ」
「やめろ」
四方から怒号。僕はあっけなく乗客の一人に羽交い絞めにされた。
顔を抑えてうずくまる痴漢。周りを見渡すと僕を中心にぽっかりとスペースが広がっていた。皆僕を迷惑そうに見ている。他人事のようなその瞳が癪に障った。
「なんでだよ! こいつ痴漢してたじゃねえかよ! なんで止めねえんだよ!」
誰に言うわけでもなく僕は叫んでいた。手足をばたばたさせる僕を羽交い絞めにしている男は体格がよく、僕がいくら喚いてもビクともしない。
「やめて、アッキー、ごめんなさい」
すがりつくあずさが叫んだ。
「なんでだよ、なんでお前が謝るんだよ、違うじゃん、あずさは被害者じゃん、なんで謝るんだよ」
あずさの言葉が亜希子とだぶり、僕は力が抜けていくのを感じた。泣きそうになった。
次の駅で僕とあずさは電車を下ろされた。痴漢男は騒動に紛れていなくなっていた。
駅員に引き渡されたけど、あずさと羽交い絞め男の証言、それと殴られた痴漢男がいなくなっていたこともあって、僕はお咎めなしになった。大学のレスリング部だという羽交い絞め男と駅員に謝って僕たちは駅を出た。
もう完全に遅刻の僕たちは多摩川の川原へ向かって歩いた。僕はもう、学校なんかどうでもよくなっていた。どうせ夏休みまでの消化期間だ。授業も無い。
土手に腰掛ける。あずさは気を使っているのか、何を言わずに僕の隣に座った。川辺にはジョギングする人や、犬の散歩をする人はいるが、僕たちみたいに朝からこんなところで時間をつぶすような酔狂な人はいなかった。
僕は憂鬱な気持ちでいたが、あずさは散歩途中の犬に構って笑っている。僕は黙って膝を抱えていた。痴漢されていたはずのあずさの方が僕より明るいのは一体どういうことなのだろう。
「どうしたのよ、アッキー」
「どうしたのって、なんであずさは平気な顔してんだよ」
「何が」と聞いてくるあずさに僕は少し躊躇してから「痴漢だよ」と言った。
「……うざいけどね。うん、今日はそんなしつこいのじゃなかったし」
「今日のはって、いつも痴漢にあってんの?」
「え? まあ、いつもってこともないけど……、滅多にないってこともないかな」
僕は悲しくなった。
「ごめんね、男って馬鹿だよな。あずさの言うとおりだよな。馬鹿で幼稚で、ホントごめん」
「なんでアッキーが謝るの? 痴漢したことあんの?」
「ないよ、そんなの」苦笑しながら答える。
「じゃあいいじゃん」
あずさは微笑んだ。
「なんで?」
「んー、上手く説明できないけど、もうそういうもんだと思うしかないんじゃない。蚊に刺されたと思うしかないのよ」
その言い草、まるで男なんかこんなもんなんだという諦めがあるのかもしれない。昨日の亜希子の話の後に、痴漢を目撃してしまった僕は、男って生き物が嫌いになりそうだった。
「ごめん、本当にごめんね。馬鹿ばっかで」
「だから、アッキーが謝る必要はないじゃない」
あずさは強めに言った。うじうじしてるんじゃないよと言われている気がした。
「アッキーは助けてくれたじゃない。女の子ってああいうのに弱いよ」
あずさは照れたように笑った。自分でも、なんであの時痴漢に殴りかかったのかわからない。拳には痛みが残っている。素人が人を殴ると拳を痛めると聞いたけど、まったくその通りだった。拳どころか心も折れちゃったけど。
「アッキーって結構激情派なのかね?」
「しらないよ」
「照れてるのぉ?」
擦り寄ってくるあずさ。
「うるさいよ」
僕はぶっきらぼうに答えた。
「私、嬉しかったよ。助けてくれて。ありがとう」
お礼なんていらないよ。僕はなんにも出来ていないんだから。
「アッキー、ねえアッキー」
甘ったるい声で僕を呼ぶ。気まぐれな猫みたいだ。僕とあずさの温度差は男女の差なのかな。僕はなんだよ、と身をよじってあずさから離れた。
「なんで逃げんのよ」
あずさはなおも擦り寄ってくる。なんか今日のあずさは気持ち悪いし、なんかしつこいなあ、と振り向いた瞬間。
あずさの顔が近づいてきた。
お前、顔近いよ、と文句を言おうとした僕なのだが、文句は言えなかった。なぜなら僕はあずさに唇を奪われていたからだ。一瞬の出来事だった。思考回路は断裂した。
「ちょちょちょちょっと、なになになに?」
慌てて飛びのいた。びっくりした。心臓が物凄い速さで脈打っている。ちょっとまて、なんだ、どういうことだ、唇にまだ生暖かい感触が残っている。今キスされたの? 俺?
なんで? 普通キスって恋人同士とかがするんじゃないの?
「何よ、その反応は」
怒っているのか笑っているのか分からない表情であずさが言う。
「いや、だってコレって……ええ?」
何だコレ。夢か? ちょっと待て、一回整理しよう。
「ちょ、落ち着け、あずさ」
僕は立ち上がろうとして足を滑らせて転んだ。
「あんたが落ち着きなさいよ」
落ち着けるか。仰向けであたふたしている僕の上にあずさがハイハイみたいに四足で覆い被さって来る。
「ねえ、アッキー」
「な、なになになになに?」
怯えて後ずさりをしようとする僕を押さえつけるあずさ。なんか強引なプレイボーイみたいだ。って呑気に考えている場合じゃない。あずさの顔が至近距離に迫る。髪からシャンプーの匂い。女の子の匂いだ。あずさは女の子だ。当たり前なんだけど、それがとても辛かった。
「ねえ、あたしと付き合って」
あずさの一言に僕は動揺した。ちょっとまて、突然すぎるよ。こんなのあるか、しかも何、この体勢。なんか男女逆じゃない?
「ちょ、あずさ何言ってんの?」
「だから、あたしと付き合ってって言ってんの。何度も言わせんな」
あずさの顔が緊張しているのか少し赤い。マジか。マジ話か。
「と、突然過ぎやしないか?」
「全然突然じゃない。あたしにとっては」
「ちょっと、だけどさ、一回どいてよ、この体勢はまずいって」
傍目から見たら濃厚なラブシーンと取られかねない。しかも朝っぱらの川原だ。
しかし、あずさは一言「やだ」と言った。
……いやいや、なんでだよ。
「返事してくれるまでどかない」
後には引けない気分なのか。真っ赤な顔をしたあずさは頑なに動かない。
なんでこんなことを突然言い出したんだろう。一昨日もなんか変だったよなあずさ。寺内さんもあずさに悩みがあるとか言ってなかったっけ。悩みってこれのことだったのか。
確かあずさは、私にとっては突然じゃないって言ったよな、僕は今まで何にも気づかないで、あずさに気を持たせるようなことをしていたのかもしれない。
(意外と本人は気づかないもんなんだよな)
正也の台詞を思い出す。あれは、僕に言っていたんだ。相手は学級委員の松本じゃなくてあずさだったんだ。正也は気づいていたんだろうか。あずさが僕の事を好きだったと。……気づいてたんだろうな、やっぱり。
僕は、僕はあずさを女の子として見ていたのだろうか。自問する。答えは簡単に出た。否だ。友達だった。なんでだろうか。なぜ僕はあずさのことを異性として見ることができなかったんだろう。世間一般的に見ても、あずさは可愛い部類かもしれない。でも、僕はそういう対象として見れなかった。なんでだろうか。考えるとあいつの顔が浮かんだ。正也だ。
僕は初め、あずさは正也の彼女なのかと思った。結局は違ったのだけれど、違うと分かったときは、正也の気持ちもわかってしまっていた。正也があずさを好きだと知っていたから、僕はあずさを女の子として見れなかったんだ。そして、そのままあずさの立場は僕の中で固定されてしまった。それは、これからも多分変わらない。変われないんだろう。
「ごめん、あずさのこと、そういう風に思ったことないんだ」
ちゃんと目を見て言おうとしたのだけれど、無理だった。僕はあずさの顔を見ることが出来なかった。本当に男らしくない。あずさはちゃんとこっちを見てるのに。
あずさはゆっくりと身を起こした。ほのかな匂いを残して起き上がった彼女は僕の隣に少し距離を開けて座った。
「ごめん、突然」
あずさは小さく呟いた。川の流れに掻き消されそうなほど小さな声だった。
「いや、うん、大丈夫だけども」
曖昧に答える。
「この前ね。まさやんに告られたんだ」
そうか。そうなのか。結局、正也は僕には教えてくれなかったんだな。ちょっと寂しいけど、あいつ、変に照れ屋なところあるもんな。
「なんとなく、そうなんじゃないかなとは思ってたんだけど、そう言われた時、アッキーの顔が浮かんだんだ」
あずさは膝を抱えて川の向こうをぼんやりみていた。下唇をかみ締めている横顔は、見てはいけないような気がしたから、僕もじっと正面を眺めていた。
「ねえ、アッキーはあたしの気持ち気づいてた?」
「ううん」否定する。
「そうだよね。アッキー、鈍感だもんね」
あずさは笑った。「うるさいよ」と僕も笑った。白々しい雰囲気で二人は笑った。笑いが止まるのを恐れているようだった。
「一昨日さ、アッキーが交通事故に遭ったって聞いて、あたしのせいなんだって思ったんだ。あたしがわがまま言ってお昼付き合わせたから事故に遭っちゃったんだって」
亜希子と同じようなことをあずさも考えていたのか。あんな大した事ない事故でも周りの人間にこれだけ迷惑をかけてしまったのだと考えると、学校を休めてラッキーなどど考えていた自分が恥ずかしくなる。
「そんなことないよ。完全に俺の不注意だもん。ごめん、心配させちゃって」
「うん、そうだよね。そう思う」
「いや、やっぱりあずさのせいかもな」
わざとらしくおどける。「馬鹿」とあずさは口元を緩めた。笑ったのか泣いたのか、どっちだろうと思った瞬間、あずさは立ち上がっていた。
「あずさ?」
立ち上がったあずさは少しそのまま直立していたが、くるりとこちらを向いて笑った。
「忘れて。今の」
はっきりとした口調だった。照れ隠しか、胸を張ってこんなことを言った。
「今日、痴漢から助けてくれたアッキーがちょっとかっこよく見えちゃっただけなのです。単なる気の迷いなのです」
僕も立ち上がる。今度はいつも通りに笑うことができた。
「まあ仕方ないよな。俺、意外にかっこいいからな」
冗談も言えた。いつもと同じように。
「調子に乗るなよー。アッキーなんか、あたしの周りではむっつりスケベ扱いされてんだからね」
あずさは二三歩下がって馬鹿にした口調で言った。うん、いつも通りのあずさだ。外見上はいつも通りのあずさに見える。
「ぬわんだとー!なんでだよ!」
僕も叫び返す。あずさの目にはどう映っているのだろう。自然に見えているかな。
「いつもまさやんのエロトークをニヤニヤして聞いてるからだよ」
「ニヤニヤなんかしてねえよ!」
しかし、僕の知らないところでそんな陰口を叩かれていたなんて。ちょっと、普通にショックを受けるぞ、それ。
「やーい、変態むっつりスケベー!」
あずさが駆け出した。
「てめえ、このやろー!」
僕は大げさに怒ったふりをしてあずさを追いかけた。こんな茶番、したって仕方ないのにな。
でも、今はこうするしかないんだよな。だって、あずさの気持ちも、僕の答えも今はどうしようもないんだから。正也に告白されたあずさの脳裏に僕が浮かんだように、あずさに付き合ってと言われた時、僕の頭には亜希子の顔が浮かんだんだ。
あずさとは、いつか、あんなこともあったよねって笑える日が来たらそれでいいじゃないか。来ないかもしれないけど、でも今は、こうやっていつも通りにしているしかないんだろう。これでいいのだ。
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